固唾をのむ著者の気配が伝わってくる。

 では、生きる者は何を伝えるべきか、何をなすべきなのか。

「知ってしまった人間として、知らんふりはできんのよ」

「現実は厳しいからね。二〇〇〇柱、名前の分かっとる遺骨があって、その中のたった一〇人とか二〇人くらいしか、本当の真実はないかもしれん。だからといって、それを捨てることはできんのよ。死者を見捨てることは、できんのよ。名前や住所が違うとるのは、生きている者のしわざじゃから。あそこに眠る死者たちはみんな、息をひきとる前に家族のもとに帰りたいと思いながら、自分の名前や住所を伝えていかれたんじゃから。その気持ちを考えるとね、知ってしまった人間として知らんふりはできんのよ」

 著者を、佐伯さんは質したのである。終生いかなる政治組織や団体にも属さず、一市民として原爆供養塔の守り人であり続け、志半ばで病に倒れた悔しさもにじむ。くわえて、おたがい真実に近づこうとする者同士としての、連帯の表明でもあったろう。正義感や使命感だけではない、「知らんふりはできない」とは、つまり生き方に関わる問題なのだ。

 

丹念な取材のもとに浮かび上がってきた、重大な新事実

 自身の葛藤や孤軍奮闘ぶりについて、著者はみずからを律して多くを語ろうとはしない。しかし、事実に即して忠実に語られる言葉は、緻密な取材によって集められた証言、丹念な資料収集、煩雑な裏付けを厭わぬ精査のたまものである。その結果、私たちに手渡される事実の数々は、日本の戦後史の発掘に繋がってゆく。全国の農漁村から軍事拠点広島に動員された少年特攻兵たちの存在。朝鮮半島出身者たちの身の上と、理不尽に抹殺された人生。納骨名簿に記載されながら、じつは生存していた従軍看護婦。半世紀以上の歳月を乗り越えて弟の遺骨を手にした、かつての原爆孤児の半生。沖縄出身の被爆者は、戦後のアメリカ統治下、社会的に放置されたままだった……納骨名簿の名前ひとつひとつに、家族にまつわるおびただしい物語があった。ようやく連絡がついても、遺骨はすでに戻っていると言われ、受け取りを拒まれることさえあったという。読みながら、遺族の方々が抱えてきた煩悶の深さを、想像したことさえなかった自分の無知が恥ずかしく、歯がゆい。佐伯さんが洩らした言葉「おうとるほうが、不思議よね」のリアリティが、ひたひたと黒い雲のように迫ってくる。

2024.11.09(土)
文=平松洋子