死者を葬り去ってはならない。死者を忘れてはならない。死者を歳月のなかに埋もれさせてはならない。なぜなら、原爆供養塔におさめられているのは、無差別殺戮によってもたらされた無念の死であるから。本書が問いかけてくるのは、死者の想いとともに私たちが生きることの意味である。

 

死者が語りかけてくる言葉

 昭和二十年八月六日午前八時十五分、爆心地は瓦礫の海と化す。その中央に位置した慈仙寺や広島市役所に行き場のない遺骨が次々運び込まれた。人肉の焼かれる匂いと煙を浴び、野宿同然のまま遺骨を拾って歩く僧侶。市長室に畳一枚を持ちこんで遺骨を守り、供養する二十代の若い女子職員。または昭和二十九年、供養塔再建に向けて行政を動かした建設局長や、舞台裏で財源を死守した漁協のボス。彼は、原爆によって愛娘をふたり奪われた父親だった。

 私たち生きる者は、これまで死者と正面から向き合い、寄り添い、ひとりひとりの人生が語りかけてくる言葉に耳を澄ましてきただろうか。著者の視線は、日本の戦後そのものにも注がれている。

 本書でつまびらかにされる佐伯敏子さんの修羅の人生。戦後七十年の歳月から丁寧に掬い上げられてゆく知られざる事実の数々。この原爆供養塔にも、存続の背景には人々の辛苦が秘められていた。縷々語られる事実は、打ちのめされるほかない凄まじさである。いっぽう、目をそらさず、こうして読む行為そのものが死者に向き合い、寄り添い、考えることでもあるという思いがしだいに湧き上がってくる。なぜか。それは、一言一句が著者が自身に課した覚悟と厳しさによって貫かれているからだ。

 掘り起こされる事実のあらゆる細部に、堀川惠子そのひとが遍在している。ジャーナリストの執念や誠実を超えた、人間としての生き方が事実の毛細血管のすみずみに血を通わせているのである。だから、読む者を突き動かす。ノンフィクション作品に真に胸を打たれるのは、記された事実や記録の凄みによってだけではなく、それらを通じて書き手の人格の深部に触れるときだ。

2024.11.09(土)
文=平松洋子