歴史研究者の一人として、ぼくはこうした北条政子像に強い違和感を抱きます。彼女はめそめそと泣く女性なのだろうか、武士たちを泣き落とす女性なのだろうか、と。愛する夫・頼朝と産み育ててきた武家政権を守るため、あるいは実家である北条の権力を拡大するため。目的の解釈こそ色々あり得るだろうけれど、彼女は常に、戦いの渦中に凜然と立っていたはずです。勝利のためならば、わが子から「けだもの以下」と吐き捨てられてもやむなし。そうした覚悟をもって。

 政子をそう捉えるからこそ、ぼくは『吾妻鏡』が描く政子に説得力を感じます。こちらでは、朝廷の挑戦に対して、彼女はまさに獅子吼します。「みなみな、今の生活があるのは誰のおかげであるか。すべて頼朝さまのおかげではないか。頼朝さまのご恩は山よりも高く、海よりも深い。しかしながら、このようやく得た安寧が、また再び朝廷によって破壊されようとしている。御家人たちよ、今こそ、戦うべき時である」。

 こうした根本的なイメージの差異の提示に比べると、瑣末な指摘になってしまいますが、鎌倉時代には、「幕府をつぶせ」という表現はあり得ません。たとえば、後醍醐天皇は幕府を滅ぼすことに成功するわけですが、その思いを共有した大塔宮護良親王は、「朝廷を蔑如してきた伊豆の小役人の子孫、北条高時法師を討て」と呼びかける文書をたくさん作成しています。これを受け取った武士たちは、高時を討てとは幕府をつぶせということだな、と脳内で変換して、行動を起こしたわけです。さらに蛇足ですが、幕府という言葉自体が、当時はない。明治になって日本史という学問が始められ、便宜的に幕府の呼称が用いられました。ですから、「幕府をつぶせ」と言いたくても、直には言い表せなかった。そこで幕府の長である北条義時を名指しして、「義時を討て」という。「義時を討つ」ことが幕府を否定することと同義だったのです。

 本のタイトル『夜叉の都』からして、答えは自明のようですが、解説の任を果たすため、ここはあえて問いましょう。本書の政子は、いったいどちらの政子なのか。めそめそ泣く政子でしょうか、獅子吼する政子でしょうか。

2024.08.08(木)
文=本郷和人(東京大学史料編纂所教授、文学博士)