当時、秦野の領主だったのは波多野忠綱でした(本書にも少しだけ登場します)。波多野氏は源氏累代の有力家人で、頼朝のすぐ上の兄、朝長は同氏の女性を母にもち、この地で育っています。また「十三人の合議制」のメンバー、中原親能(大江広元の兄)とは密接な縁を結んでいました。ですので波多野氏がかりに金剛寺を整備して実朝の首を供養したとすると、その背後に広元あたりの存在を想定する(親能はすでに病没)ことができるかもしれません。

 いま実朝のものという首塚を訪ねると、その近くに石碑が建っていて、実朝の和歌が刻まれています。「物いはぬ 四方のけだものすらだにも あはれなるかなや 親の子を思ふ」(『金槐和歌集』所収)。実朝の視線は、一心に我が子をグルーミングなどして世話する、イヌもしくはネコの姿にじっと注がれていたのでしょう。

 母イヌや母ネコが幼子の面倒を見ている様は、慈愛に満ちています。それは現代でも中世でも同様だったはず。見る人すべての心は和み、癒やされる。ああ母の無償の愛情はなんと清らかで尊いものか、と。でも実朝はそうではなかった。言葉を話せぬ動物ですら、こうであるのに。それに比べてわが母は……。実朝が政子をどう見ていたか、この歌は何よりも雄弁に語っている気がしてなりません。

 承久の乱への解釈として、いま学界では新しい説が台頭しています。従来は、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の覆滅を切望していたと考え、疑ってもみませんでした。ところが上皇が「鎌倉を滅ぼせ」と呼びかける文書には、どこにも「幕府をつぶせ」とは書かれていない。「北条義時を討て」と書かれている。ということは、上皇が望んでいたことはあくまでも義時個人の追討であって、武家政権の否定ではない、というのです。

 それに呼応するように、『承久記』という史料に描写される政子の姿は、実に弱々しく哀切です。彼女は参集した御家人たちに訴えます。「お前たちも知っての通り、わたしは次々に肉親を失ってきた。まずは長女、大姫を失った。最愛の夫、頼朝に死別した。次女の乙姫(三幡)、頼家、実朝の順に亡くなり、もう子どもは一人もいなくなってしまった。これで弟の義時にまで先立たれたら、わたしはどうやって生きていけばよいのか。みなみな、どうか憐れみをかけてほしい」。

2024.08.08(木)
文=本郷和人(東京大学史料編纂所教授、文学博士)