「何人でも産みたい」

 92年、皇太子の「僕が一生全力でお守りしますから」というプロポーズに心を打たれて、雅子さまは結婚を決意された。外交官のキャリアを捨てることに悩まれる雅子さまの背中を押したのも、皇太子の「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、国のためというのは同じ」という言葉だった。

 93年6月9日、曇り空からわずかに陽光が射し込む中で、結婚パレードが執り行われ、沿道には約19万人もの人々が押し掛けた。白色のローブデコルテを身に纏い、オープンカーからお手振りをされる雅子さまは、幸せいっぱいの輝かしい笑みを浮かべていた。

 しかし、皇室では「お世継ぎを」と頻りに急かされる過酷な現実が待っていた。宮内庁の幹部たちは、雅子さまのご懐妊を最優先する態勢を敷いた。その背景には天皇皇后のご意向があると言われていた。 

 マスコミが、お世継ぎを期待する記事を報じるたびに、お二人は記者会見で「コウノトリの機嫌に任せる」と答えざるを得ない。そのうえ、海外訪問も95年の中東訪問以降は、2002年までの8年間、1度もなく、懊悩の日々が続いた。

「雅子さまは一見すると仕事に生きる女性で、皇室でも外交の道でこそ自己実現を望まれていたように思えます。たしかにその面はありますが、皇室にとってのお世継ぎの重要性については、何よりも深く自覚されていましたし、『何人でも産みたい』というご覚悟だったようです。ただ、それでもお二人の間には子供ができなかった。そんな状態が何年も続き、雅子さまは有形無形のプレッシャーに押しつぶされていくのです」(前出・宮内庁担当記者)

本記事の全文は『文藝春秋』2024年1月号と、『文藝春秋 電子版』に掲載されています(雅子さま還暦「内なる戦いの30年」)。

2024.03.06(水)
文=「文藝春秋」編集部