現代の私たちが当たり前に使っている「タンパク質」「炭水化物」「カロリー」といった概念を(どうやら世界で)初めて大衆に教えたのも彼女である。エレンは学校給食、家庭科、家政学、公衆衛生学の始祖とされているという。

 さらに彼女はアメリカの女性教育協会を説得して海辺(小説のようにカリフォルニアではなく東海岸だが)に女性も受け入れられる生物学研究所を開設。その研究所はのちにウッズホール海洋生物学研究所となり、単一の研究所としては世界最多の60名ものノーベル賞受賞者を輩出することになる。それにはDNAの二重らせんを発見したジェームズ・ワトソンや発達生物学への研究に大きく寄与した下村脩や本庶佑も含まれる。「生命起源論」の一大拠点になったのだ。ちなみに、津田塾大学を創設した津田梅子も1891年にこの研究所で学んでいるという。彼女もまた生物学者になりたくてもなれず、後進の女性の教育に人生を捧げた人だった。

 ほら、エレンはエリザベスそっくりではないか。そんなスーパー女性化学者がもっと昔に実在したのだ。女性だからという理由で不当に評価が低いが(日本ではほぼ無名である)、その業績は質量ともにまさにレオナルド・ダ・ビンチ級。

 真に驚くべきは、エレンが「家庭、自然界、そして人間の健康はすべて相互につながっており、科学は学際的であるべきだ」と考え、1892年、「エコロジー」(生態学)という新しい分野を提案する講演を行ったという事実だ。ただし、博士号ももたない女性の言うことだけにこの斬新すぎる提案が受け入れられることはなく、環境問題やエコロジーの概念が広まるのはそれから数十年後に現れる別の女性科学者レイチェル・カーソンを待たねばならなかった。それにしてもエコロジーがアウトドアではなく「インドア(主婦目線)」から始まったとは仰天ものである。

 

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 長くなってしまったが、『化学の授業をはじめます。』のエリザベスというキャラクターがエレン・スワロウ・リチャーズを大いに参考にして形成されたのは間違いないだろう。そしてエリザベスの言動や彼女の巻き起こしたセンセーションが一見、荒唐無稽と思われても、実在のエレンのそれに比べればこれでまだまだ控えめなのである。

2024.02.15(木)
文=高野秀行