この記事の連載

腹立たしいことも、ありがたいものとして

 「ああ、そうか」と思えることがひとつでもあると、プラスの経験になる。

 「あのイライラのおかげで気づくことができた。いやなできごとだと思ったけれど、ありがたいな」と思えるのです。

 事故に遭って骨折してしまったとしても、同じです。不自由な身体を持つ日々で感じたことや考えたことには、きっと発見があるでしょう。あるいは「死」について自分なりの考えが深まり、価値観ががらりと変わるかもしれません。

 最終的には、「ありがたい経験だったな」と思えるわけです。

 こうして「すべてのことに意味があり、学びがある」ということがわかっていくと、どんなにつらいことも、いやなことも、腹立たしいことも、ありがたいものとして肯定できるようになります。

 さらにエッセイを書くことが習慣になっていれば、どんなできごとが起こっても「エッセイの種になる」と前向きにとらえられるようにもなるでしょう。あたらしい「秘密」を見つけることができそうだ、と。

 だからこそ、まだ感情がたかぶっているときに書くのでは早いのです。

 『今日もごきげんよう』(マガジンハウス)という僕のエッセイ集にある「夫婦喧嘩」という一篇。タイトルどおり、いま読むと笑ってしまうような日常の些細な喧嘩の様子がありのままに描かれています。

 けれどその喧嘩の描写のみで終わらせるのでは、エッセイとは言えません。そこからコミュニケーションや夫婦関係について考えをめぐらせ、自分なりの発見に落とし込んで、はじめてひとつのエッセイになっていきます。

 もし、腹を立てている最中や仲直りする前に「こんなことがあって腹が立って……」と書いていたら、なにも理解できないままで、感謝にまでたどり着くことはできなかったでしょう。落ち着いて考えたうえで筆を執ったからこそ、「ありがたいな」と肯定することができたのです。

 「全肯定」で生きる。

 エッセイストは、いやなことも前向きに味わい尽くせる生き方なのです。

エッセイストのように生きる

定価 1,760円(税込)
光文社
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)

次の話を読む「なにも考えないのは意外とむずかしい」松浦弥太郎が1日1時間、何も生まない“ぼんやり時間”を持つ理由

2023.11.02(木)
文=松浦弥太郎