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山口百恵さんにお会いしたかった

――1991年に来日されたのは、日本で音楽の勉強をするためですか?

 上海でも放映されていた日本のドラマ「姿三四郎」に出ていた竹脇無我さんと、「赤いシリーズ」に出ていた山口百恵さんにお会いしたかったからです。日本に来れば会えると思ったんですよね(笑)。

 当時はまだ、中国から日本への観光目的での自由な渡航は許されていなかったので、日中学院で日本語を勉強するという留学ビザで来日しました。

 とはいえ、ヴァイオリンと二胡はもちろん持ってきていたので、時々東京藝術大学の先生にプライベートレッスンを受けたりしながら、日中学院で日本語を学び、日本の皆さんと積極的に交流しました。

 日本のレコード店では、当時中国ではまだ普及していなかったCDによる音楽が聴けたのも魅力でした。ジャズヴァイオリニストのステファン・グラッペリの演奏を聴いた時は衝撃でした。毎日池袋のヴァージン・メガストアーズに通って、いつか自分もこんな演奏がしたいと日々思いを募らせていました。

――日本で演奏活動をすることになった経緯についても教えてください。

 来日したばかりの頃、日本の友人に頼まれて人前で演奏したのがそもそものスタートです。横浜の中華街にある関帝廟の庭で二胡を弾いてほしいと言われ、中国の伝統曲を何曲か演奏しました。

 すると演奏終了後に、観客のおじいさんが楽屋にいらしたんです。「子ども時代に住んでいた満州で聴いた音色を思い出して感動した。いつか『蘇州夜曲』を弾いてほしい」と泣きながら頼まれ、「私の演奏で、誰かをこんなに感動させることができるんだ」と、私の方が感動してしまいました。

 ただ、その時は「蘇州夜曲」を知らなかったんです(笑)。「蘇州夜曲」は中国の伝統曲ではなく、日本の作曲家、服部良一先生が作曲された日本の曲です。中国では当時、日本の曲を演奏することが禁じられていたので、日本に来るまでこの曲を知りませんでした。今は練習して習得し、YouTubeでも演奏を公開しています。

――そこからメジャーデビュー、一流ミュージシャンたちとのコラボレーションなど、一気にブレークされました。

 偶然のような必然の出会いが重なったというか、すべてはご縁だと思っています。

 まず、元爆風スランプのファンキー末吉さんとの出会いがありました。彼が率いるロックバンドで二胡奏者としてご一緒させていただいたことは、その後の私の演奏スタイルに大きく影響しました。

 それまで、二胡という楽器は座って演奏するもので、歴史上立って演奏した方は、ほとんど誰もいなかったんです。でも「座って演奏するなんてロックじゃない」と、立奏スタイルの二胡を、私が世界で初めて確立しました。

 「エレクトリック二胡」を生み出したのも、おそらく世界で私が初めてです。

 ロックバンドでの演奏でしたから、どんなにマイクを通しても二胡の音が客席に届かない。だったらアンプにつなげて、音量調節できるようにすればいい、ということで、エレキギターの製造・販売をしているフェルナンデス社に行って、一緒にエレキ二胡を開発しました。今は使っていませんが、香港やオーストラリアのツアーでもエレキ二胡は大活躍しました。

 人前で演奏する機会が増えるにつれ、「二胡を習いたい」という方も増えてきて、二胡教室も主宰することになりました。おかげさまで私の教室で二胡を学び、そのまま教室で二胡講師として活躍してくれる方も出てきて、いい形で教室が拡大しています。

2023.10.26(木)
文=相澤洋美
撮影=鈴木七絵