大正デモクラシーの喧噪の裏で、戦争の足音が近づきつつあった1923年9月1日、関東大震災が発生。そのパニック下で「朝鮮人が集団で襲ってくる」というデマが飛び交う中、千葉県福田村(現在の野田市)で香川から来た行商団が朝鮮人と間違われ、自警団を含む村人によって虐殺されるという事件が起こったーー。
そんな歴史の闇に葬られていた実話を基に、オウム真理教の信者たちを追ったドキュメンタリー『A』『A2』で知られる森達也がメガフォンを取った映画が『福田村事件』だ。あの森達也が劇映画を撮るーーということを聞き付け、井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、コムアイ、柄本明といった実力派俳優が集結。恐怖に支配された人間の姿をスリリングかつ重層的に描いた、見応えたっぷりの問題作が誕生した。
関東大震災から100年の今、この映画が私たちに投げ掛けてくるものは何なのか? 森達也さんに話を聞いた。
テレビでも映画でも企画が通らなかった「福田村事件」のタブー
――まず、森さんが「福田村事件」を映画化するに至った経緯から教えてください。
『A2』(’02年)が公開されたころか前年くらいに、千葉県野田市で福田村事件の慰霊碑を作るという小さな新聞記事を見つけたんです。
僕は当時フリーのテレビディレクターでもあったので、何か番組にできないかと思って、すぐに現地に行って。事件について話してくれる人もほとんどいなかったし、資料も全くなかったけど、概要はなんとなくわかったので企画書を作って、テレビ局をプレゼンして周ったんです。
でも、どこもダメで、仕方なく文章に書いて(※『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』〈晶文社刊〉に収録)、福田村事件のことは引き出しにしまっていたんです。
それが、2014年に『FAKE』を作った後、次は劇映画を撮りたいと思って、なんかネタあったかな? と考えていた時に、そうだ福田村事件があったぞと。福田村事件なら、ただ人が殺されたというだけでない、ナラティブ(個の主観による物語)を加えて劇映画にできると思って、企画書を持って映画会社を周ったんですが、またしても全部ダメで。
諦めかけていた時に、あるイベントで偶然出会った荒井晴彦氏から、福田村事件を映画化しようと動いていると聞かされて。じゃあ一緒にやらないか、と言われました。
―― 一度は諦めた「福田村事件」が十数年越しに動き出した。しかも荒井晴彦さんといえば、古くは『赫い髪の女』や『Wの悲劇』、近年では『共喰い』『幼な子われらに生まれ』などの脚本を手掛けた日本映画界のレジェンド。映画ファンにはまさに夢のタッグです。
僕はドキュメンタリーの人間ですから、劇映画の人たちとはあまり面識がなくて。初対面の時点で荒井さんたちはすでに撮るつもりでスタッフも集めていたので、僕は転校生みたいに「初めまして」って、そこに迎え入れられた感じでした。
――私自身、福田村事件のことは今回初めて知って、こんなことがあったとは! と衝撃を受けました。これまで黙殺されていたのは朝鮮人虐殺と部落問題(行商団は被差別部落の出身だった)というタブー視されてきた2つの大きな問題を孕んでいることが、事件が黙殺されてきた大きな理由だと思います。森さんがそこまで「福田村事件」という題材に惹かれたのは何故だったのでしょう?
タブーだからというよりは、自分がずっと考えていたテーマが、福田村事件には濃厚に充填されている、という感じですね。僕が『A』を撮るためにオウムの施設に入った時に、一人一人の信者たちが善良で穏やかだったことに衝撃を受けました。でも、同時に彼らは大量殺戮者になっていたかもしれない。そのことをずっと考えていて、それはその後も僕の創作の原点になっています。福田村事件もまさにオウムと同じで、普通の善良な人たちが何の罪もない人を虐殺してしまった。そこに引き寄せられたんだと思います。
2023.08.30(水)
文=井口啓子
撮影=平松市聖