◆コーヒー
「額から血を流した女にコーヒーを勧められた」
初めて会った、正体不明な人からコーヒーを勧められたら、あなたは飲めますか。
東京の四ツ谷に住んでいる60代のWさんという男性からお聴きした話です。Wさんは二十代前半の頃、地下鉄丸ノ内線「四谷三丁目」駅から徒歩3分の距離にあるアパートに住んでいました。
Wさんは夏の深夜3時頃、近くの呑み屋から歩いて帰ろうとしたところ、路地で女性が額から血を流して倒れているのを発見したんです。女性の歳は四十代くらい。背が高く、髪はボブスタイルだったそうです。
女性は倒れたままの姿でWさんに「タクシーを呼んで」と言いました。Wさんは「それよりも救急車を呼びましょう」と勧めたのですが、かたくなに拒む。とにかく「タクシーを呼んで」と言ってきかない。
そんなとき、まるで呼ばれたかのように、すーっとタクシーが路地に入ってきたそうなんです。するとさっきまで倒れていた女性がやにわに立ち上がり、タクシーに乗り込んだ。女性が告げた行き先は「左門町」。
左門町と言えば、恐い話のスタンダード「四谷怪談」の舞台ですよ。四谷怪談といえば四谷左門町の浪人・伊右衛門が不義をしたうえにお岩を毒殺し、亡霊となったお岩に報復されるという話です。四谷に血を流した女性が倒れていて、行き先が左門町だなんて、ゾッとするじゃないですか。
女性がタクシーに乗った様子を確認したWさんが立ち去ろうとした瞬間、女性はWさんの腕をつかみ、「あなたも……来て」と言う。気味が悪かったのですが、女性がケガをしているのが心配だったので、Wさんは同乗したそうです。
着いたところは、白いマンション。彼女はここに住んでいるらしい。女性がマンションに入るまで見届けようと思っていたら、彼女、「あなたは命の恩人だから、コーヒーでも飲んでいって」と言う。Wさんは「部屋に恐い男が待っていたらどうしよう」と恐くて今にも逃げ帰りたかったそうですが、反面、「このまま帰ってはいけない」気がして、部屋へ着いていきました。
彼女はWさんにコーヒーを供し、「少ないけれど、お礼に」と3万円を差し出したそうです。Wさんは「こんなには受け取れない」と1万円だけをいただいて、その夜は帰りました。コーヒーの味は「憶えていない」そうです。
1週間後、Wさんは「四谷三丁目」の駅前で背が高いボブヘアーの女性が歩いているところに遭遇しました。あの日の女性です。しかし挙動がおかしい。首が異様に長く、ひょこっ、ひょこっ、と首が左右に揺れている。Wさんは気がつかれないようにしながら彼女の後をつけたのですが、曲がり角で見失ってしまったのだそうです。
四ツ谷ってこういう話、よく聞くんです。「四谷怪談」は元禄時代の実話を基にしていて、「日本一有名な実話怪談」とも言われています。そう考えたら、「コーヒーをどうぞ」と言われて飲んだWさんはそうとう勇気がありますね。
2023.08.08(火)
文=吉村智樹
写真=志水 隆