人々の暮らしの名残を感じながら巡る
![かつての小・中学校を沖から。岸壁には子供たちが記念に描いた絵が残されているそうです。](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/8/d/1280wm/img_8d917c949fc9a7e219dece1685a70d16113947.jpg)
そして高島をボートは去り、ついに軍艦島へ。
けれど、軍艦島に近寄ってはみたものの、波は徐々に高くなり、長崎県が規定するサイズを超えてしまいました。この日、上陸は断念。沖から島影を見物することになりました。
今は廃墟となっているコンクリートの建物群、それぞれの説明を受けると、当時の様子が目に浮かぶようです。
北に位置する7階建ての学校は4階までが小学校、その上階が中学校がだったそう。ところどころで枠が抜け落ちた窓は大きく、父兄や先生が子供たちにたっぷりの光を与えたいという願いが込められていたとか。
![島の南側。日本最古の7階建て鉄筋コンクリートのアパート。灯台は人々が島を去ってから建設されました。](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/a/d/1280wm/img_ad233bf213b832f71ac56eda87967472113561.jpg)
学校の脇には病院と、伝染病の隔離病棟が置かれていました。小さな島では感染症が何よりもの恐怖。早くから隔離という発想があったようです。
興味深いのは、9階建てアパートの屋上にあった保育園。岩盤と石炭を掘った残土で埋め立てた島では植物が育ちません。だから子供たちの情操教育のために屋上に米や野菜を植えていたそう。これは、日本初の屋上緑化。先進性を感じます。
当時はパチンコ店や映画館、ビリヤード場もあったとか。キツイ仕事の後には息抜きが必要だったのでしょう。
西にある31号棟の堤防近くには大きな穴が開いています。これは海底炭脈から採掘されたボタを運び上げるベルトコンベアのためのもの。
上陸ができたならば、見学の通路から、主力坑だった第2竪坑跡やレンガ造りの総合事務所、日本最古の鉄筋コンクリート造りの7階建てアパートが見られるそうです。
![上陸できるのは南側の約230メートルの通路のみ。©軍艦島上陸クルーズ](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/a/9/1280wm/img_a95c2980e368e835d27745d1a126468d211414.jpg)
また、西側にそびえる灯台は、人々が去ってから建てられたとか。なぜなら、明かりが煌々と灯されていた島では、船舶がぶつかる心配もなかったからです。
![帰路も洋上から世界遺産見物ができます。こちらは小菅修船場跡。](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/1/4/1280wm/img_14d1c7ea3c263efe542543fb8e375317235799.jpg)
軍艦島からの帰り道も、世界遺産に登録されている小菅修船場跡や旧グラバー住宅を船上から見物。明治期の日本の近代化の大きな潮流を感じるコースでした。
ちなみに、軍艦島にかつて暮らしていた人々は、自分たちの島のことを「軍艦島」とは呼ばず、「端島」と呼ぶそうです。
![世界新三大夜景の長崎。稲佐山から長崎港を見下ろして。](https://crea.ismcdn.jp/mwimgs/4/8/1280wm/img_48319733943cd40e811475931a5dc1e2123579.jpg)
軍艦島
●アクセス 長崎港から軍艦島上陸ツアーに参加を。
【取材協力】
長崎県観光連盟 https://www.nagasaki-tabinet.com/
軍艦島上陸クルーズ https://www.gunkanjima-cruise.jp/
![](https://crea.ismcdn.jp/common/images/blank.gif)
Column
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2021.04.24(土)
文・撮影=古関千恵子