このセクハラ時代に
「純粋な愛」を伝える難しさ
今、日本人は空前の、恋愛含む対人スキルに悩むブームである。昨今、何かすると即「セクハラ」「パワハラ」と非難され、#MeTooの俎上にのせられてしまう。
日本の政治家やえらい人たちをはじめとして、憧れの的だったはずの芸術家、俳優、映画監督から、世界文学の最高峰・ノーベル文学賞まで、その権威が次々失墜。
「飛ぶ鳥を落とす勢い」という言葉は、勢いが増す状況を表す言葉だったが、飛ぶ鳥(権威)が矢や鉄砲や石を投げられてどんどん落ちている惨状が思い浮かんでならない。
どれだけ気安く仕事と性をつなげているのかと驚くほど、仕事とお金が切り離せないのと同じように、漏れなく付いてくるおまけ感覚のように、仕事に性という対価を求めてきた歴史が明るみに出て、それがコミュニケーションを円滑にするという考え方も改める時期に来ている。
純粋な「愛情」はどうしたら伝えられるか。人類は岐路に立たされている。
“おっさん”の努力と
情熱が報われる世界
例えば、たくさんの手紙を書いて相手を振り向かせたことが美談だった時代もあるが、いまだったらストーカーになってしまう。土砂降りの中、相手の家の前で待ち続ける場面も名場面どころか犯罪場面になりかねない。
愛とハラスメントの境界がわからなくなり、わからないなら何もしないという方向に物事が進んでいきそうな現代で、「おっさんずラブ」は、その最も世間から用心されている“おっさん”が、ストーカーになりかねないギリギリで、写真をこっそり撮って待受にする、さりげなくボディタッチする、がんばってLINEを送る、相手を追いかけ続ける、長年連れ添った妻と離婚する、ほかの人と付き合っても諦めない……という行動に出てそれが愛らしいと視聴者の笑いと好意を一身に受けている。
黒澤をはじめとして登場人物たちの行為が清々しく見えるのだから、行き場のなくなったおっさんにも少しだけ希望が見えるではないか。
ただ、間違っても、相手が男であれ女であれ、黒澤みたいなことを実社会でやってはいけない。「おっさんずラブ」はこの世で手に入らないから輝く夢の世界なのだ。
ドラマの宣伝ビジュアルで、スーツを着て颯爽と立っている登場人物たちには、他局の池井戸潤ドラマのタイトルを冠しても自然に見えるだろう。情熱と努力が報われる世界という点で、「おっさんずラブ」は池井戸潤の世界と似ている。
2019.11.01(金)
文=木俣 冬