三成重敬や田部隆次と並んで、セツと子供たちの生活に関わっていたのは、ハーン最後の教え子の一人である会津八一であった。早稲田中学校の英語教師として、一雄や清を教えたばかりでなく、小泉家の表札も書けば、セツと能の観覧を共にしてもいる。清の中学1年生の時に描いた絵に惹かれた八一は、清が東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)に入学(1919年4月)する前の半年ほど、小石川の家に引きとって生活を共にしていた。当の年(1921)、清が三年生で入院する時には、次の文面の手紙を送っている。

 ……聞けばいよいよ海岸へ御いでなさるべきよし、一日もはやく出かけなさるべく候。半途にて少しよろしくなりし時に気をゆるして、とりかへしならぬやうに逆もどりせし人多し。此の際充分手をつくして遺憾なきやうになさるが第一也……

9月18日        朔

 小泉清様

 美術学校御やめなさるべきよし、それも御心まかせにて、よろしかるべしと存候。

 一雄が圧倒的に「父っ子」だったのに対して、清は「母っ子」で、セツは入院中に度々手紙を書いているが、入院生活が2年目に入る翌年の12月19日には、次の文面の手紙を書いている。

 打絶てご無沙汰しました。風邪をひかれたとの事心配します。熱があつたそうでほんとに気にかかる。然し病院にゐる事だからまた安心と思ふ。どうぞどうぞ用心して一日も早く快く成つて下さい。家では皆無事です。しかし大へん多忙で困ります。巖さんが9日に帰つて2泊して青森に行つた。2、3日の内に帰京のはづ。25日に母さんと小兄さん2人で茅ケ崎へ行く。其時何事も申(ママ)ませう。20日は清さんの誕生日ですね。お祝として3円送りませう。……25日に面会するのを楽しみです。返す返す大切に。

母より

清さん

 清は、在学中にモデルのシズと恋仲となって、入院中はシズが看病に当たり、翌年(1923)退院した時には、セツと一雄の反対を押し切って結婚した。その結婚と学業放棄のために、生活費の仕送りを断たれたと思われる。2人は京都に出、清が京極の松竹座(映画館)でヴァイオリンを弾く楽師となり、シズが編み物の賃仕事をして、その日暮らしの生活を営むようになった。

 次の年には子供(閏)が生まれ、生活は苦しく、清は美術を忘れ去ったかのように見えた。三成が、みすぼらしいアパートの2階に2人の住まいを訪ねた時、それは暗く小さな一つ部屋で、みかん箱2つを置くだけのものであったという。ただ、壁にゴーガンの絵1枚が貼ってあることに、三成は注目している。

 東京美術学校は、ハーンと親しく交わったフェノロサの尽力で設立されたものである。清が在学した時に、4年上の先輩として里見勝かつ蔵ぞうがいた。その里見は、清の歩んだ「棘いばらの道」が、その方向と曲折において、ゴッホとモディリアーニのそれと同じであると評し、さらに、シズをゴッホの弟のテオドールに例えている。シズは献身の人生を生き、後には一雄も感心するようになった。

 セツは、また、清の結婚と学業放棄に大不満であったが、気遣いの方が大きく、三成の清の住居訪問は、セツに頼まれてのものであろう。しばらくしてからは、幾分の仕送りを行ったものとも推定される。彼女が動脈硬化で倒れてから死に至るまで、清は日2度も枕元に彼女を見舞い、後に母なるセツを称える記事を、朝日新聞に投稿しているからである。

 東京に戻っての日々─「小泉画伯」としての名声と、芸術と生活を合わせての苦悩。シズの急逝と、その冷たい体に身を寄せて何時間も泣き続け、その3ケ月後に、己の手で62歳の生涯を閉じる終焉。これらの叙述の詳細は、彼の評伝に譲らなければならない。

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