まだハーンの「四十九日」の前のこと。一雄と巖が裏庭でブランコに乗っていると、空に夕焼けが広がり、一雄が「あの雲、パパと焼津に居た時のことを想うネ」と言うと、巖は声を張り上げ「揚あがれ凧たこ々たこ天まで届け」の唱歌の節で、「揚れブランコ天まで揚れ。焼津へ行ってパパ様に会おう!」と歌ったという。一雄の回想に現れる巖は、元気潑剌、その健やかさには、父の兄への偏愛を気にする余地を感じさせないものがある。彼はスキー・登山・水泳などのスポーツを愛し、岡山の第六高等学校在学中は、野球の選手として活躍したという。

 巖は、また、ユーモアに富み、人付合いに闊達(かったつ)であった。現在に残る清宛の手紙からすれば、弟に金を貸し、彼を温情で包んでいたことが窺われる。繊細さをも持ち合わせていたことは、蛙を見ると失神する「蛙恐怖症」は別としても、文学に志向したことで察せられる。あるいは、一面においてズボラでもあったかも知れない。京都帝国大学の学籍簿によれば、巖が第六高等学校を卒業し、翌月(7月)京都帝国大学の工学部に入学しているのは、当の年(1921)の前年、彼が23歳の時であったからである。(小野木重治『ある英語教師の思い出─小泉八雲の次男・稲垣巖の生涯』)

 さて、彼について最も著しい事実は、長身の美男子であったことであり、東京に帰省しても、女たちの心を騒がせ、「素晴らしい方」という声もあがったという(小泉時『ヘルンと私』)。一方、妻となる翠(みどり)は青森県八戸市の名家(種市家)の出で、姉に続いて日本女子大学校を卒業した─当時は、さらに女子美術学校に通っていたとも聞く。「友人と二人で小泉家を訪れた」というのは、当の年(1921)であり、そこで帰省中の巖に会い、情熱的な恋の絵巻を繰り広げた─との推定が許されるであろう。なぜなら、京都帝大の学籍簿で、第1学年13の必修科目のうち、ほとんどが不合格となっているからである。そして翌年、花嫁衣裳の翠がセツと並んで写真に収まったのは、大学での「大正11年4月1日資格消滅」(除籍処分)の記載と同じ頃であったろうと思われる。

 同年9月のセツの清宛書簡に、「巖は来年2月には父となる」と記され、先に掲げた12月の手紙にある「巖さんが……青森に行った」は、お産のために、翠が実家にいたからである。翌年2月には、予定通りセツの初孫である八重子さんが生れた。命名は、父方の祖父八雲に因むという─「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」である。

 その翌年(1924)、巖は京都帝国大学の文学部に入った。夫婦双方の実家の支援があったのかも知れない。前の年の末に、セツは思わぬ大金(後述)を手にしていたからである。専攻は英語英文学で、在学中に、父の講義の中から『沙翁論 Lectures on Shakespeare』をまとめ、卒業の翌年(1928)に出版、また第一書房の『小泉八雲全集』(1926~8)で講義の翻訳を担当した。さらには同人雑誌に、「お鶴の一生」・「小女に大男」などの短編を載せている。

 卒業から一年を経て(1928年4月)、京都府立桃山中学校の英語教師に迎えられた。そして、校長が記す通り、「自ラ天職ニ安ンジ楽シミテ他念ナカリキ」のように見えた。しかし、「桃山中学随一の美男」の歩む先に、美貌故の落とし穴が待ち受けていたのであり、不幸にして道を誤って、さる令嬢との恋─不毛に終わる恋─に陥った。母セツの逝去から2年を経た昭和9年(1934)は、37歳の巖にとって悲劇の年となる。6月には、翠が2人の幼児(明男・京子)を連れて八戸の実家に去り、7月には長女の八重子が母の後を追った。続く8月、隠岐の海で泳いでいる時に体の異変を覚え、9月に睾こう丸がんの癌の摘出手術を受ける。彼は、癌と知らぬ同僚に、癌を持つ者の余命を聞き、「3年くらいでしょう」という答えを受けたという。その「3年」は的中し、癌の腹部(肝臓ないし胃)への転移により、40歳で他界したのであった。手術から3年間、アパートに移って送った日々の孤独感と死への不安は、彼の愛した子供たちへの罪を、贖つぐなうものであったと言えるだろう。

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