『冬馬、身体を大切に』
さっきから、どうにも彼との思い出ばかりが浮かぶ。走馬灯を見るのは死にゆく者だけではないのかもしれない。
頭の中のスクリーンに映し出されたのは、大学四年の夏の記憶だった。あれは教員採用選考の二次検査を受けた日だった。個人面接を終えて俺が帰宅すると、継父は玄関まで出迎えて、「どうだった?」と急いた様子で尋ねてきた。
「緊張したろ。練習通りやれたか?」
「うん。上手くできたと思う」
「本当に? 本当に大丈夫だったか?」
「今は教員が不足してる時代だから。よっぽどヘマをやらかさなければ通るよ」
ほっとしたように「そうか」と言う。彼の方がよっぽど緊張していたようで、それがなんだかおかしかった。
夕飯は継父が用意してくれていた。継父の職場近くにある惣菜屋の天ぷらがテーブルいっぱいに並んでいる。俺の好物だった。
向かい合わせで食事を摂りながら、継父がぽつりと言った。
「どうして冬馬は、学校の先生になりたいと思ったんだ?」
これまでも何度か、似たような質問を投げかけられたことがあった。
「小中高と、担任に恵まれてたからかな」
当たり障りのない答えを返すと、さらに「印象に残ってる先生はいる?」と尋ねられる。突っ込んだことを訊かれたのは初めてだった。
「中三のときの担任のことをよく覚えてる」
「いい先生だった?」
「うん。俺の話を親身に聞いてくれる、いい人だった。……あの頃はちょうど、母さんの再婚が現実的になってきた頃でさ」
継父がはっと息を吞む音が聞こえた。これまで避けてきた話題に触れてみたくなったのは、試験が終わったばかりで気が緩んでいたからか、それとも継父を困らせてやりたいという幼稚な欲求を燻ぶらせ続けてきたせいか。
「母さんからその話を聞くのが気まずかったんだ。だから家に帰りたくなくて放課後、学校に残ることが多くなった。そうしたら当時の担任がそれを聞きつけて、よく教室に顔を出すようになった。『清水君は現代文の成績がイマイチだから、この機会にみっちり基礎からやり直すか』と言って、課題を見てくれるようになったんだ。国語の先生だった」
先生とともに教室に居残って、現代文のワークをひたすら復習する。そんな日が何日か続いて、ある日とうとう「家に帰りたくない」という本音がぽろりと出てきた。すると先生は、心配そうに俺の顔を覗き込んで言った。
『先生に何かできることはある?』
――ないですよ。先生は赤の他人じゃないですか。
『清水君は冷たい考え方をするなぁ。赤の他人って言ったって、こんな狭い教室で毎日顔を突き合わせてるんだぞ。話くらい、聞かせてくれたっていいじゃないか』
いつしか俺は、先生に向かって生々しい不安を吐露していた。先生は結局赤の他人だから、俺の家庭の事情についてはアドバイスの一つもくれなかった。でも。
「俺の話を聞いてくれて、勉強を教えてくれて、それだけで嬉しかったんだ。少しだけ不安が和らいだような気がした」
継父はしばらく黙って天ぷらをつついていた。穏やかな沈黙が続く。食卓のものをあらかた食べ尽くして、彼はようやく口を開いた。
「俺が不甲斐ないばっかりに、悲しい思いをさせたな」
顔を上げると、継父はひどく優しい笑みを浮かべていた。
「でも冬馬の周りに、優しい大人がいてくれてよかった」
俺はその年の教員採用選考に合格し、次の春から中学校教諭として働くことが決まった。
雪解けの季節。上越の家を出る日になって、俺は初めて継父に向かって頭を下げた。
「七年間、ご迷惑をおかけしました」
悲しそうに目を伏せ、「迷惑だなんて……」と呟く彼。思わず目を逸らした。
「でも俺を引き取ったせいで、伯母さんとの関係が悪くなっただろ」
「姉ちゃんのことなら気にするな。冬馬のせいじゃない」
引越社のトラックが家の前に停まったとき、継父は意を決したように口を開いた。
「姉ちゃんは冬馬のことを悪く言ったことは一度もない。俺を責めてたんだよ。――実は俺たち姉弟も、再婚家庭の子どもだったんだ。うちの母ちゃん、俺たちと血が繫がってないんだよ」
「……初めて聞いた」
「初めて言うからな」
訊けば、継父の戸籍上の母親は、彼が幼い頃に病死したらしい。そして中学生のときに父親が再婚して、新しい母が家にやってきた。
「俺も姉貴も、本当は再婚してほしくなかったんだが、幸せそうにしてる父ちゃん見たら何も言えなかった。ある日突然知らない女の人が家にやってきて、家族として過ごせって言われて混乱した。当然母ちゃんだって俺たちに気を遣ってただろうが、顔色窺ってばっかりで息が詰まったよ。一つ屋根の下で他人と暮らすっていうのは、もの凄いストレスだった。だから姉貴は俺と香織さんとの結婚に反対したんだ。あのときどれだけ苦しかったか忘れたのか、ってな。冬馬くんに重荷を背負わせるなと何度も言われた」
継父が俺の母との結婚を決めたとき、赤羽弓枝はこう詰ったという。
――そりゃあ子どもは、親の前では『賛成だよ』って言うに決まってるよ。そうしないと生きていけないからね。あんた、正気か? あの子に私たちと同じ思いをさせるのか?
「姉ちゃんとごたついてるのは、俺たちの問題だ。余計な心配をかけて本当にごめんな」
決まりが悪くなって、頰を搔く。
「そう言われても信じられないよ。やっぱり、俺は伯母さんに嫌われてる気がする」
「今は疑ったままでもいいさ」
別れ際、継父は言った。
「学校の先生は忙しいよ。大変な仕事だ」
「わかってる」
「うん。冬馬ならきっとやっていける。電話するよ。――身体を大切にな」
家を出たばかりの頃は、数週間に一度のペースで電話がかかってきていた。頻度はだんだんと減ってきてはいたが、それでも数ヵ月に一度は連絡をもらっていたと思う。
七日前の夜もそうだった。午後七時過ぎ、電話口から継父の明るい声が聞こえて、俺はなんだか泣きそうになった。
『最近どうだ。変わりはないか』
「まあ、何とかやってるよ。そっちは?」
天気の話から始まって、当たり障りのない世間話を経由し、互いに近況報告をする。継父はやがて、恐る恐るといった具合で俺の冬休みの予定を尋ねてきた。
「今年は忙しいんだ。仕事の方が色々と」
『去年もそう言って、結局二年も会ってないじゃないか。年末くらい顔を見せてくれよ』
「あー、考えておく」
『また俺の言葉を疑ってるんだろう。俺は本気で会いたいんだよ――そうだ、雪だ。今年も上越の方は雪が凄いんだ。雪かきを手伝ってくれないか』
結局継父に押し切られる形で、大晦日に訪問することを約束した。電話を切る直前、彼はいつもの決まり文句を口にした。
『じゃあ、またな。冬馬、身体を大切に』
何十回と聞いた言葉だった。継父は電話の最後にはいつも「冬馬、身体を大切に」と言っていたから、それを彼の声で再生するのはたやすい。
どうやら俺は、最後に最も重要な謎を解かなければならないようだ。――俺はなぜ、継父のダイイングメッセージを聞き間違えたのだろう。
彼の言葉が途切れ途切れだったからだろうか。それとも救急車のサイレンが、雪を踏みしめる音がうるさかったからだろうか。いや、違う。それらはどれも些細な要因だった。
あの日のレストランで、彼が母の言葉を聞き取ることに失敗したのは、「アイス来たよ」が予想外の台詞だったからだ。そして「アイス来たよ」よりも「大好きだよ」の方が耳慣れた言葉だったから、頭の中でそう変換された。きっと彼は、それまで母から何度も「大好きだよ」と言われていたのだろう。
『ガープの世界』のウォルトは引き波という単語を知らなかったから、それはより分かりやすい言葉に――ウォルトがよく知るヒキガエルという単語に置き換えられた。
人は聞き馴染みのない言葉に遭遇すると、それを頭の中でより聞き馴染みのある別の言葉へと変換する。そうして聞き間違いという現象が起こる。
どうして今の今まで、あの声を忘れていられたんだろう。父を殺した直くんと、重体の継父に付き添って救急車に乗り込んだ俺とを分かつものは、たった一つだけだったのに。
*
心なしか、救急車のスピードが落ちているような気がした。二人の救急隊員たちは何度も交替しながら心肺蘇生を続けているが、一向に脈拍が戻る気配はない。
救急隊員は医師ではないので、救急車の中で傷病者の死亡を判断するのは難しいと聞いたことがある。たとえストレッチャーに寝転んでいるのがほぼ死人であっても、搬送先の病院に到着するまでは心臓マッサージを止められないのだろう。隊員たちの顔には既に、諦めの表情が浮かんでいるように見える。
「死んだんですか?」
彼らは俺の質問を黙殺した。答えは出ている。
近くで耳障りな音が鳴っている。まるで獣の鳴声だ。それは俺の喉の奥から絞り出された、醜い呻き声だった。
彼のダイイングメッセージを解読したところで何の意味があるというのだろう。俺は体を折って頭を抱え込み、荒い呼吸を繰り返す。何もかも遅い。彼は死んだ、殺されてしまったのだから。
そのとき一人の隊員が、俺の肩をそっと揺すった。
「聴覚というのは、最後の最後まで残る感覚なんです」
顔を上げるとしっかりと目が合う。もう一人の隊員も、心臓マッサージの手を止めずに俺の方を振り返った。
「今なら聞こえるかもしれません。話しかけてあげてください」
二、三度深呼吸を繰り返すと、頭に新鮮な空気が流れ込んでくる。俺は揺れる車内で、ゆっくりと身を乗り出した。俺に与えられた最後のチャンスだった。
彼に送る最後の言葉は、何がいいだろう。「ちゃんと除雪機を調べるよ」とか「道間孝直のことを警察に報告するよ」とでも言えば、彼は安心して逝けるだろうか。しかし、どれも違う気がした。
彼の右耳に顔を寄せ、「父さん」と呼びかけてみる。
「父さん、ちゃんと伝わってるよ」
父が俺のことをどう思っていたか、今でもよくわからない。でもそんなことはどうでもいいのだ。彼の真意を探るのはもうやめにしよう。たとえ心の中を覗けなくとも、父が俺のよき保護者でありたいと願っていたことは紛れもない事実である。父が俺にくれた言葉は消えない。
父は凄い人だと思う。言葉で、態度で、俺への愛情を示し続けてくれた。ひねくれものの俺があなたの愛情を信じるまで。
そうだ。俺はあなたに愛されていると信じている。だから聞き間違えた。
俺の耳は、「冬馬、身体を大切に。大好きだよ」という言葉を、父の最後の言葉としてふさわしいと判断した。それが聞き馴染みのある言葉だったから――父が何度も「身体を大切に」と言ってくれたから。だから聞き間違えた。
父の最後の言葉が何であろうと、俺があのダイイングメッセージを温かい愛の言葉と錯覚したという事実が一つあれば、もう十分じゃないか。
決して父が聞き間違うことのないよう、俺ははっきりとその言葉を口にする。溢れんばかりの感謝の気持ちと、僅かばかりの愛情を込めて。
「父さん、アイス来たよ」
父の心臓と呼吸が止まってから約一分後、救急車は病院の駐車場に到着した。

おむこさんは殺人鬼
2026年7月10日
定価 1,870円(税込)
文藝春秋
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