間抜けな聞き間違い

 消音装置が作動しているためか、救急車のサイレン音が随分と緩和されている。車内は案外静かだった。意識を目の前に戻すと、人形のように真っ白な顔をした継父が先ほどと寸分変わらぬ姿勢で横たわっている。瞼は固く閉じられたままだった。

 救急車が発進してから恐らく三分も経っていない。一人の救急隊員が、車内に搭載された電話に向かって何やら捲し立てていた。消防本部に詰めている当番医に指示を仰いでいるようだが、それほど継父が重体だということだろう。

 そうか、彼はもうすぐ死ぬのか。

 大晦日に死んでくれるのは助かるな、などとぼんやり考えた。通夜も葬式も、長期休みの間に終えられる。

 新潟市内の市立中学で国語教師として働き始めて、四年目になる。今年度、俺は初めて三年生のクラスを受け持っていた。今は受験シーズン真っ盛り。年が明ければすぐに私立高校の受験日がくる。忌引き休暇で穴を開けるわけにはいかなかった。

 仮にも保護者だった男の今わの際に、真っ先に仕事のことを考える俺は薄情者なのだろう。喪失感はほとんどない。それよりも、「なぜ継父が」という疑問で頭の中が埋め尽くされていた。

 なぜ継父は襲われたのだろう。人当たりがよく誠実な人だ。少なくとも、首にボールペンを刺されるほどの恨みを買うような人間ではない。職場の人間関係でトラブルが起こったという話は一度も聞いたことがないし、先日の電話でも何か悩んでいるような素振りはなかった。

 継父は今も上越の家に一人で住んでいる。元より地域との関わりが薄いので、ご近所トラブルが暴力沙汰に発展するということもないはずだ。隣に住んでいる道間(どうま)一家――道間孝文(たかふみ)美佳(みか)夫妻と二人の子どもの四人家族とはそこそこ交流があったような気がするが、彼らとの間で揉め事があったという話も聞いたことがなかった。

 職場の人間でも近隣住民でもないとなれば、やはり犯人は身内に潜んでいるのだろうか。母の死後俺を引き取ったせいで、継父は赤羽の親戚との折り合いを悪くしていたようだった。

 このまま継父が死んでしまったら、きっと警察の捜査は行き詰まる。本来ならば最も深い繫がりを持っているはずの“息子”が、彼のことを何も知らないのだから。継父の交友関係や犯人の心当たりについて刑事に尋ねられたとしても、俺は恐らく碌に答えられないだろう。

 気づけば俺は腕を伸ばし、継父の手を握っていた。彼が手袋を着けているせいで体温を感じることさえできない。

 継父の最後の言葉――彼が息も絶え絶えに絞り出した言葉が脳内で繰り返し再生される。

 冬馬。身体を大切に。大好きだよ。

 大好きだよという台詞は、あの日のレストランを思い起こさせた。明るく賑やかな店内。テーブルに美しく並べられた白い皿。グラスを持つ手が震えるほどの緊張感と、楽しそうに笑う母の横顔。そして、「アイス来たよ」を「大好きだよ」と聞き間違えた継父の、きょとんとした顔が瞼の裏に浮かぶ。

「間抜けな聞き間違いだったな……」

 そう呟いたとき、一つの考えが突如として頭に浮かんだ。俺が彼の最後の言葉を聞き違えたという可能性はないだろうか。

 継父はこの上なく善良な人間だと思う。俺の前では常によき父親の仮面を被り、そのように振る舞ってくれていた。しかし、死を迎える直前まで完全無欠に生きることができる人間など、果たしてこの世にどれだけ存在するだろう。

「身体を大切に」も「大好きだよ」も、美しい言葉だ。だが何者かによって襲撃され瀕死の状態にある人間が、そんなどうでもいい台詞を一心に伝えようとするだろうか。俺なら、自分の首にボールペンを突き立てた犯人の名前を一番に伝えたいと思うはずだ。

 継父は本当は、彼を襲った犯人についての重要な手がかりを口にしていたのではないだろうか。つまり、あの言葉はダイイングメッセージだったのではないか。それを俺が聞き間違えていたのだとしたら、今すぐにその間違いを正す必要がある。

 救急車が交差点を曲がり、車体が大きく揺れた。継父の手を強く握り直しながら、俺はあのとき聞き取ったメッセージを頭の中の黒板に書き込んだ。

 とうまからだをたいせつに

 だいすきだよ

「引き波」を「ヒキガエル」と聞き間違えるように、「アイス来たよ」を「大好きだよ」と聞き間違えるように、人が聞き間違える言葉とその元の言葉は大抵よく似ている。俺が間違って聞き取った台詞と継父が実際に発していたダイイングメッセージも、きっと音韻やアクセントの位置などが似通っていたはずだ。

 目を瞑って継父を発見したときの様子を思い浮かべてみる。あれがどんなふうに聞こえたのか、正確に思い出さなければならない。

「年末くらい顔を見せてくれ」と彼から連絡をもらったのは、ちょうど一週間前の日曜日。そして今日――十二月三十一日の昼過ぎに車を出して、新潟市の自宅から一時間半ほどかけて継父を訪ねた。就職を機に家を出てからというものできるかぎり継父の元には寄りつかないようにしていたので、実に二年ぶりの帰省だった。

 上越の家は冬場の雪かきをスムーズにするため、塀や門扉、フェンスなどの囲いを設置しないオープン外構という様式を取っていた。向かって左側にカーポートと玄関があり、その隣には開放的な庭が広がっている。

 俺は家の前に車を停めながら、漠然とした不安に襲われた。敷地内にはたくさんの雪が残っていた。特にカーポートの入口には、五十センチほどの高さの雪が積もっている。

 昨夜の電話では「冬馬の車が停められるように、家の前は綺麗にしておくから」と言っていたのに、どうして雪が積もったままなのだろう。俺が約束より少し早い時間に到着したせいで、雪かきが間に合わなかったのだろうか。

 車から降りてすぐ、不安は最高潮に達した。一面真っ白に染まった庭を横断するように、二、三メートルほどの長さの赤黒い線が一筋走っていたのだ。それは血痕だった。大量の血液が、庭の白い雪を染め上げていた。

 血痕の先には人影があった。分厚いコートを着た継父が、雪に塗れて仰向けに倒れている。その傍らには除雪機が放置されており、電源が切られていないのか、エンジンの低く唸る音が駐車スペースにまで届いていた。

 慌てて庭へと駆け出し継父の傍に跪いた俺は、そこで初めて、彼の右側頸部にボールペンが深々と突き刺さっていることに気づいた。

 声をかけてみても反応はなく、目を瞑ったままか細い声で呻くだけだった。俺はその場でスマートフォンを取り出し通報を済ませ、家の中からありったけのタオルを持ってきた。傷口からはだらだらと血が流れ続けている。刺傷を塞いでいる凶器を引き抜いてしまうと大量に出血する恐れがあったので、ボールペンには触らず、タオルで患部の周りを固定した。

 呼吸と脈が弱い。すぐに救急車のサイレンが近づいてきたが、俺はパニックになっていたと思う。肩を擦りながら呼びかけ続けていたら、継父が薄く目を開けた。

 視線がかち合う。瞬間、彼は唇を動かした。

「とうま……からだを……たいせつ……に……」

「無理して喋らなくていい。大丈夫だ、もうすぐ助けが来る。大丈夫だよ」

 肩を擦りながらそう言うと、彼は目を見開き、微かに首を横に振った。苦しげな表情で言葉を続ける。

「だいす……きだよ……」

 ――改めて振り返ってみれば、聞き取りに不安を覚える。つい先刻までは「大好きだよ」とはっきり聞こえたような気がしていたが、実際のところ語尾は掠れていたようにも思える。終助詞の「よ」は、俺が無意識のうちに付け加えたのかもしれない。俺は頭の中の黒板に書き記した「だいすきだよ」の、「よ」の部分をクリーナーで消した。

 妙な感じがする箇所は他にもあった。

 重傷を負って荒い呼吸をしている人間の声が途切れ途切れになるのは仕方がない。ただ、言葉を区切る場所がどうにも引っかかるのだ。人は「大好きだ」と言うとき、最も重要な意味を表す「大好き」という部分は一息に言うものではないだろうか。しかし彼のダイイングメッセージの場合、「だいす」と「きだ」の間に小休止があった。同様に、「大切」と「に」の間にも不自然な空白がある。

 俺はチョークを握り直すと、言葉が途切れていた部分に斜線を引いた。

 とうま/からだを/たいせつ/に

 だいす/きだ

「大切に」と「大好きだよ」、これら二つのフレーズを聞き違えているのなら、「身体を」だって自信がない。恐らく「冬馬」の部分は正確に聞き取れているはずだが、逆に言えば「冬馬」以外の全てのフレーズが曖昧で、不確かだった。

 継父は俺に呼びかけた後、本当は何と言っていたのだろう。

「何を伝えたかったんだよ」

 そっと問いかけてみても、ストレッチャーの上の継父は苦しそうに眉根を寄せるだけだった。ならば、俺が彼のダイイングメッセージを再構築するしかない。

 しかし俺にできるだろうか。彼と心を通わせることすらできなかったくせに、聞き違えた言葉から真意を読み取ろうだなんて、あまりにも無謀な試みだろう。

 それでも俺がやらなければならない。手がかりを持っているのは俺だけなのだから。

 俺が彼を刺した犯人を見つけるのだ。

   *

 継父を襲う可能性のある人物として、俺が最初に思い浮かべたのは赤羽弓枝(ゆみえ)だった。継父を忌み嫌う数少ない人物であり、彼の実姉である。

 赤羽弓枝は新潟市内の工務店で、社員大工として働いている。幼少の頃から建築関係の仕事に携わることを夢見ていた弓枝は、ほとんど女子生徒のいない工業高校の建築科を卒業して大工になったのだという。「姉ちゃんは意志が強いんだ」と継父が誇らしげに言うのを何度か聞いたことがあった。

 昔は仲の良い姉弟だったのだと、継父は少し寂しそうにこぼしていた。姉弟の関係が変わったきっかけは、継父と俺の母との結婚だった。弓枝は、二人が交際していたときから難色を示していたらしく、当然結婚にも反対していた。そして母が死に、継父が連れ子を引き取ることを決めてからというもの、関係はさらに悪化していった。

 高校二年の秋。部活から帰ると家の前に大きなバイクが停まっていた。継父は車しか持っていなかったので不審に思い、音を立てないよう慎重に玄関ドアを開けると、リビングの方から何やら言い争う声が聞こえてきた。

「あんたが面倒見る必要はないでしょ」

 俺はほとんど弓枝と話したことはなかったが、それが彼女の声だとすぐにわかった。「姉ちゃん、しつこいよ」と返すのは継父の声。

「何度もこの話はしただろ」

「こっちに何の相談もせず、あんたが勝手に決めただけじゃん」

「姉ちゃんに伺いを立てる必要はない」

「自分勝手すぎる。あの子だって、他人と暮らしてたら息が詰まるんじゃないの?」

「俺は冬馬の保護者だ」

 名前を出された瞬間、全身の筋肉が硬直した。――二人は俺のせいで言い争っている。

「本当に馬鹿じゃないの。あんたのそれは優しさでも何でもなくて、ただのかっこつけだよ。誰にアピールしてんだか」

「は?」彼の声が震えた。「何が言いたい?」

「香織さんはもう死んだのに、どうして取り繕う必要があるのって訊いてるんだよ」

「取り繕ってない」

「いいや、あんたはいつも人の顔色ばかり窺ってる。結局、世間体が一番大事なんだ」

「俺は、俺がこうありたいと望む自分でいたいだけだよ」

 弓枝は鼻で笑った。「いつかボロが出るさ」

 耳を塞ぎたくなるような口論が続いて、俺はこっそり玄関を出た。三十分ほど家の周りをウロウロして帰ってきたらカーポートからバイクが消えていたので、ようやく中へ入る。継父はダイニングテーブルに着いてお茶を飲んでいた。目が合うと、

「遅かったじゃないか」

 しばらくの間黙って見つめ合っていたが、そのうち沈黙に耐えきれなくなった。俺は宙を仰いで言った。

「卒業したら家を出るよ」

 彼は全てを察したようだった。「少し話をしよう」と俺を向かいの椅子に座らせる。

「前から言おうと思ってたんだが、冬馬、大学は家から通えるところにしてもいいんじゃないか?」

 高一のときに提出した進路希望調査票は、すべての欄を県外の大学で埋めていた。早く大人になって一人暮らしをして、自由になりたかった。

「冬馬の成績なら近くの国公立大学も狙えるだろ。あそこなら教育学部もあるし……」

「お金のこと?」

 被せるように問いかけると、彼は「えっ?」と目を丸くする。

「俺は母の保険金なんか、当てにしてません」

 冷たく尖った敬語がするりと口から出てきた。再び重い沈黙。たっぷり十秒ほど経って、継父はやっと口を開いた。

「冬馬のことが心配なんだ。一緒にいたい」

「……いつもそうやって聞こえのいいことばっかり。本当は出て行ってほしいくせに」

「そんなこと思ってないよ。ごめんな、俺が態度で示せていないんだろうな」

 テーブルに肘を突き、身を乗り出す。

「人は人の心を覗けない。冬馬に、俺の心の中を見せてやることはできない。でも俺が冬馬にとっていい保護者でありたいと願っているのは事実だし、それらしく振る舞っているつもりなんだよ。それでも安心できないかな」

 俺が首を横に振ると、継父は「じゃあ、もっと頑張るしかないな」と苦笑した。

 結局、俺は上越の家から通える大学に進学した。「一緒にいたい」という継父の言葉を信じたわけではなく、大学のカリキュラムと自分の偏差値を鑑みて選んだ進路だった。

 俺と継父との共同生活が継続することとなり、いよいよ姉弟仲は悪くなっていった。継父から直接聞いたことはないが、赤羽弓枝は俺が不在のときを狙って上越の家を訪問し、継父に嫌味を言っているようだった。

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