「わかんないです」

 赤羽弓枝、と脳内の黒板に書き加える。もし弓枝が犯人だとしたら、聞き間違えたダイイングメッセージの中に彼女の名前や特徴などを表す言葉が紛れていた可能性が高いが、ざっと見たところ「あかばねゆみえ」と音韻、アクセント、音の長さなどが近い箇所は存在しなかった。

「とうま」は俺への呼びかけだ。であれば「からだを」以降が、継父の残したダイイングメッセージということになる。

 文頭に来るのはやはり、継父が一番伝えたがっている重要なフレーズだろう。息絶える前にどうしても言い残さなければならないと判断された、最も優先順位の高い情報である。例えば、犯人の名前。

 俺と継父の共通の知人の中に、下の名前で呼び合うような間柄の者はいない。継父が俺に犯人の名前を告げようとする場合、フルネームもしくは苗字で言い表そうとするはずだ。苗字を口にしていたのなら恐らく「からだを」の部分がそれに当たるし、フルネームの場合はもう少し長くなって「からだを/たいせつに」のあたりが呼応するだろう。いずれにせよ、「からだを」は犯人の苗字ということになる。

 思考の過程をまとめるように、気づいたことや疑問点などを黒板に書き殴っていると、

「わかんないです」

 背後で一つ声が響いた。振り返ると、そこには見慣れた光景が広がっていた。雑然と並べられた机、埃っぽい床。三年四組の教室には、三十二名の生徒たちが一人も欠けることなく揃っていた。教卓の上には現代文の教科書が載っている。

 声を上げたのは山里(やまざと)という男子生徒だった。国語の成績は振るわないのだが、いつも積極的に質問をしてくれるので、授業を進行するにあたっては頼りになる生徒だった。

 山里は黒板を指差しながら、もう一度「わかんないです」と言う。

「どこがわからないんだ?」

「清水先生の予想では、『身体を大切に』のあたりで犯人の名前を言ってるんでしょ? じゃあ、その後に続く『大好きだ』は何になるんですか? 先生のオトウサン、犯人の名前の他にも、何か伝えたいことがあったってことですか?」

 チョークを置き、腕を組む。この問題に関しては俺にもわからないことだらけなのだが、できるだけわかりやすく、今把握している情報をまとめてみよう。

「犯行現場に倒れていたあの人を発見したときのことを、じっくり思い返してみたんだよ。あのとき、彼は俺の姿を認めるとすぐに『冬馬、身体を大切に』と言ったんだ。そして俺が『無理して喋らなくていい』と応えると、一度首を横に振り、焦れたように続きの言葉を発した。

 恐らく彼は、最初に犯人の名前を口にしたんだろう。ところが俺が『無理して喋らなくていい』などと全く意図を汲み取っていない受け答えをしたために、焦ってもう一度口を開いた。だから『大好きだ』という後半部分は、前半を聞き取れなかった俺にさらなる犯人の特徴を伝えるための追加情報なんだと思う」

 山里は首を捻りながら「……なるほどぉ」と呟いた。

「じゃあ先生、その追加情報の方から先に考えましょうよ」

 山里の代わりに手を挙げたのは、高砂(たかさご)という女子生徒である。俺が顧問を務めている、かるた部のエースだ。普段は大人しいのだが、授業中に指名するとたまに核心をついた意見をくれることがある。

「『大好きだ』って形容動詞ですよね。ってことは、元の言葉も形容動詞だったんでしょうか?」

「そうと決まったわけじゃない。聞き間違いというのはときに、複雑な変化を起こす場合があるからな」

 クラス委員の宮沢(みやざわ)が質問を重ねる。「複雑って? 例えばどんな?」

「昔、俺の継父は『アイス来たよ』を『大好きだよ』と聞き間違えたことがあるんだが、これは結構、込み入った変化をしているんだ。『アイス来たよ』を形態素解析して品詞を判別すると、『アイス』は名詞、『来た』はカ行変格活用動詞のタ形、『よ』は終助詞となるが、一方『大好きだよ』は形容動詞の『大好きだ』と終助詞の『よ』に分解される。変換元と変換後では、単語数も品詞の種類も異なっているだろう」

 聞き間違いに一定のルールはない。俺が形容動詞『大好きだ』と聞き間違えたからといって、元の言葉が似たような形容動詞である保証はどこにもなく、変換のパターンは無限に広がっているのだ。これは骨が折れるぞと溜息を吐いたそのとき、後方の列に座っていた男子生徒がひらりと手を挙げた。

「はーい、先生。『アイス来たよ』を『大好きだよ』に聞き間違えるんなら、逆もあるんじゃないですか?」

 意見したのは中村(なかむら)という男子生徒である。クラスで一番成績がよく、二学期の期末テストでは学年一位をとっていた。

「清水先生はオトウサンが『大好きだ』って言ってるように聞こえたんですよね?」

「ああ」

「実はその『大好きだ』ってメッセージ、『アイス来た』みたいな感じで、元は名詞と動詞を組み合わせた文節だったんじゃないですか?」

 そうか、と俺は膝を打つ。

 もしも俺が聞き間違えた「だいす/きだ」のオリジナルが、「アイス/来た」のように三文字の名詞と動詞のタ形を組み合わせたフレーズだったとしたら、継父が「だいす」と「きだ」の間に空白を作るようにして喋ったことに説明がつく。

「名詞と動詞の組み合わせか。確かに、あり得るかもしれないな。もし『きだ』の変換元の動詞が、語幹が短く、かつその母音が『i』である動詞であると仮定すると、『来た』、『見た』、『行った』など一気に目撃証言らしいダイイングメッセージになる」

 おお、と教室がどよめいた。

「じゃあ、残った『だいす』について考えてみよう。ここに当てはまる名詞を探すんだ。音韻が共通するならば、あの人は『a』、『i』、『u』の母音を持つ三文字の名詞を口にしていたはずだ」

 詩人かラッパーならば韻を踏む単語を即座に思いつくのだろうが、残念ながら俺はしがない国語教師だ。五十音表を思い浮かべて総当たりしていくしかない。あ、い、う、という順番で口を動かしながら、母音の共通する普通名詞を並べていく。

 生徒たちは、思いつく限りの候補を次々と出していった。山里は「ライス!」と叫び、宮沢は真面目な顔で「マイク」と呟く。

 合図。アヒル。パイプ。大工。

「大工、か」

 継父と不仲であった実姉の職業は大工である。もし「だいす/きだ」のオリジナルが「大工、来た」だったとしたら。継父は、大工つまり赤羽弓枝が犯行現場にやってきた人物であると伝えようとしたのではないだろうか。

 しかし、高砂が不満そうに唇を歪めた。

「不自然じゃないですか?」

「そうだな。一応筋は通るが、少々不自然だ。赤羽弓枝が犯人であることを示そうとする場合は、その職業よりも姉弟という関係性を優先して伝達すべきだろう。『姉が来た』、『姉がやった』、『犯人は俺の姉だ』などと言えば、一発で伝わるのだから。最も重大で伝えやすい情報を無視して犯人の職業に言及するとは考えにくい」

 少しずつ前進しているように思えていたのに、また行き詰まった。

 やはり俺には無理だと嘆きたくなるのをぐっと堪えて、自分自身に言い聞かせる。あのときのことを思い出せ。雪に横たわる継父の姿を目にしたときのことを。周囲の状況や彼の浮かべていた表情こそが、俺の読み取るべき文脈なのだ。

 一面の雪と、一直線に飛び散った血痕。――継父の傍に除雪機が置かれていたということは、まさに除雪作業を始めようとしていたところを襲われたのだろうか。

 塀も門扉も設置されていないため、庭にいれば外の様子ははっきりと見える。それでも継父が犯人の接近に気づかなかったのは、きっと除雪機の音がうるさかったせいだろう。除雪機のエンジン音が、背後から迫る犯人の足音を搔き消したのだ。

 そうだ、あの家には塀がない。継父は倒れた状態でも、去っていく犯人の姿を見ることができたはずだ。

 犯人は走って逃げたのだろうか。はたまた車か自転車か。ともあれ継父は、犯人の逃走手段を知っていたはずである。

 財布、ナイフ、廃油、バイク。――バイク。

 その名詞を口にした瞬間、俺の愚かな聞き間違いは、瞬時に継父の声で上書きされた。

『バイク……行った』

「大好きだ」じゃなかった。彼は犯人の逃走手段を伝えようとしていたのだ。

 赤羽弓枝はバイクを所持している。やはり犯人は彼女だったのだと納得しかける一方で、もう一つの可能性が頭の片隅でちらついていた。

 バイクを運転する人物には、他にも心当たりがあるのだ。確か、(なお)くんもバイクに乗っていたはずだ。

   *

 俺の故郷である佐渡島の相川は季節風が直接吹き付ける西の海岸沿いに位置するため、それほど雪は積もらず、冬はスノーシャベルが一つあればそれで事足りた。継父とともに上越で暮らすようになって、同じ新潟でもここまで雪の降り方が違うのかと、その積雪量の多さに戸惑いを覚えた。

 上越の雪は固く湿っている。大量に降り積もった雪が日中の日差しで少しずつ解け、氷点下まで冷え込む夜間、氷のように押し固められるのだ。継父は固い雪を削るための小型除雪機を所持していた。フロント部分に鋭い回転刃が取り付けられた、ガソリン式の除雪機である。刃によって細かく削られた雪は除雪機の内部へと吸い上げられ、煙突状の排雪口から遠くに向かって吹き飛ばされるという仕組みだった。

 当初隣は空き家だったが、俺が高校二年の冬、その家のリフォームが始まって、春になると道間一家がやってきた。

 引っ越しの挨拶にきた道間孝文は、身だしなみに隙のない、四十代前半くらいの男だった。妻の美佳は三十代半ば。そして夫妻には高校生の息子、「直くん」がいた。孝文の祖父の代から道間家の男の名前は一文字目に「孝」が付くそうで、その下の漢字をニックネームとして呼んでいるようだった。

 道間夫妻は「直くんの高校入学を機に引っ越してきた」と言っていたが、なんとなく、うちと同じような雰囲気を感じさせる家庭だった。普通、家を買うのは子どもが小さいときだろうから。案の定、再婚だという噂が流れてきた。直くんは父方の連れ子らしい。――ほどなくして道間家には、新しい子どもが生まれる。確か、楓花(ふうか)ちゃんという名前の女の子だった。直くんにとっては半分だけ血の繫がった妹である。

 歳も近く、似たような立場に置かれていた俺と直くんだが、喋ったことはほとんどない。高校も違ったし、直くんはそもそもあまり学校に通っていないようだったので、通学時間に鉢合わせることもなかったのだ。それに直くんは、周囲の人間全てを遠ざけようとしているかのような、陰鬱なオーラをいつも身に纏っていたから、正直なところ話し掛けづらかった。

 対照的に父親の孝文はとても社交的な人物で、継父はすぐに孝文と親しくなった。道間一家が家庭用の除雪機を持っていないと言うので、冬になると、継父は孝文に除雪機を貸してやっていた。

 隣の道間家から返却されたばかりの除雪機を使うと、ごくたまに排雪口から色のついた雪が噴射されることがあった。蛍光ピンクの雪が一面真っ白な庭に向かって勢いよく飛んでいき、鮮やかなラインを描く。俺が驚いていると、「スノースプレーだよ」と継父は言った。

「雪道に指示標示が書いてあるのを見たことないか? あんなふうに、雪に直接吹き付けられるスプレーが売っているんだよ。この間、お隣の楓花ちゃんが家の前の雪にスプレーで絵を描いて遊んでるのを見た。それが排雪口から出てきてるんじゃないかな」

 継父は道間家に除雪機を貸し出す際、除雪機を簡易車庫に格納して運ぶことにしていた。この簡易車庫というのは金網でできた小さな箱のようなもので、底にはキャスターがついている。これを台車として利用すればエンジンを切ったまま除雪機を運ぶことができるため、道間宅で削り取られた雪がそのまま除雪部や排雪口にくっついて返ってきているのだろう、と継父は予想した。

 ピンクの雪が飛び散っていく様を見る度、俺は憂いに沈んだ。無邪気に遊ぶ妹を横目に、直くんは何を思っているのだろう。肩身の狭い思いをしてはいないだろうかと、勝手に心配していた。

 孝文は礼儀正しい人物で、除雪機を返却するときはいつも燃料を満タンにしてくれていた。しかし一度だけ、継父を怒らせたことがある。七、八年前――確か、大学一年の大晦日。ひと晩で百センチ積もるほどの大雪が降った日のことだった。

 その日、俺は朝から継父と二人で庭の除雪作業を行おうとしていた。継父が除雪機を、俺がスノーシャベルを倉庫から引っ張りだして外に出てみると、隣の屋根の上に人影があった。孝文だ。屋根の上に降り積もった雪を一人で下ろしているようだった。

 孝文は継父の姿を認めると、「今日も凄い雪だなぁ」と手を振った。継父は眉を顰める。

「道間さん、ハーネスなしでの作業は危ないですよ」

「大丈夫だよ。バランス感覚と力仕事には自信がある」

「お一人ですよね。ご家族には屋根に上るって報告してきました?」

 言うまでもなく、屋根の雪下ろしを一人で行うのは危険だ。音もなく落下して、雪に埋もれたまま発見が遅れることがままあるので、一人で作業するときは雪下ろしをする旨を他の誰かに伝えるのが基本だった。

「今、家には直しかいないんだよ」

「直くんに伝えてきたってことですか?」

「いいや。あの子は俺と話そうとしない」

 孝文は苦笑する。

「この時期は毎年妻と娘だけ、里に帰省してるんだよ。男二人だと、家の中が暗くていけないね」

 継父は「はあ」と曖昧な相槌あいづちを打った。道間美佳と楓花ちゃんの二人だけが里帰りする理由は何となく察せられた。きっと孝文は義実家と折り合いが悪いのだろう。

 俺たちが家の前の除雪作業を終える頃には、隣の屋根の雪はすっかり綺麗に無くなっていた。屋根から下りてきた孝文は、「そっちの作業が終わったのなら除雪機を貸してほしい」と言った。継父は快諾して、いつもの如く簡易車庫に格納された除雪機を孝文に渡した。

 孝文は俺たちを一瞥し、唇の端を曲げた。

「清水さんのところはいつも冬馬くんが手伝ってくれていいね。うちの直なんか、学校サボってバイクを乗り回すばっかりで」

 ちょうどそのとき、ブオンと大きくエンジンをふかす音がすぐ近くから聞こえてきた。続けて、スノータイヤが路面を引っ搔く音。直くんがバイクに跨って道間家のガレージを出て行くところだった。フルフェイスのヘルメットのせいで、その表情は窺い知れない。

「ほら、すぐあれだよ。俺は直の考えてることがちっともわからん」

 孝文が嘲るように笑うのを、継父は何とも言えない顔をして聞いていた。

 俺たちが家の中に入っても、孝文は一人で除雪作業を続けていた。継父と並んで窓辺に立ち、孝文が除雪機を動かすのを何となく眺めていた。排雪口から勢いよく雪が飛び出しているのが、ここからでもはっきりと見える。

 孝文は除雪機をバック走行に切り替えて、ゆっくりと後退っていた。その後ろ姿がえらく寂しく、無防備に見えたのを覚えている。

 突如として継父が窓を開け、孝文に向かって怒鳴った。

「道間さん、危ない!」

 孝文の手元を見て、俺はようやく継父の剣幕の理由を理解する。孝文は手を離しても除雪機が走り続けるよう、クラッチレバーに紐を巻きつけて運転していたのだ。

 鋭い回転刃を備えた除雪機は、ときに雪だけでなく使用者の手や足まで巻き込み、酷い事故を引き起こす。そのため継父の除雪機には、「デッドマンクラッチ機構」という安全機能が装備されていた。操作ハンドルに取り付けられたクラッチレバーから手が離れると、除雪機の走行と除雪部の回転が止まるという仕組みである。使用者が転倒したときなどにはすぐさまこの安全機能が作動し、除雪機が停止するようになっていた。

 しかし中には、少し手を離すだけで動きが止まってしまうのを面倒がって、クラッチレバーを固定し、除雪機がひとりでに動き続けるように細工してしまう人もいる。孝文がそうだった。

 継父はコートも着ずに家を飛び出し、隣の敷地へと向かう。孝文を真っ直ぐに見据えると、「二度としないでください!」と厳しい声で言った。

「もし今道間さんが転んだら、除雪機はあなたの方に向かって走り続けるんですよ。俺は昔、近所の人がそうやって除雪機に足を巻き込まれたのを目の前で見たことがあるんです」

 孝文はバツが悪そうな顔で継父の説教を聞いていたが、反省しているわけではなさそうだった。実際俺はその後も何度か、孝文が継父の目を盗んでこっそりクラッチレバーを固定している姿を目撃したことがある。

 継父と孝文との間で起きたその小さなトラブルを諍いと呼ぶこともできるだろうが、彼らがそれをきっかけに仲違いするようなことは決してなかった。そもそも継父は孝文の身を案じるあまり咄嗟に大声を出してしまっただけなのだから、感謝されこそすれ恨まれる筋合いはない。その後も継父は道間家に除雪機を貸し出していたし、孝文はいつも燃料を満タンにして返却していた。

 ところが昨夜、継父から電話をもらったときは、いつもと少し様子が違ったように思う。

 スマホの着信相手に継父の名前が表示されているのを見て、俺は怪訝に思った。大晦日に帰省すると既に約束しているのに、どうしてわざわざ前日の夜に電話をかけてくるのだろう。何か向こうでトラブルでも起きたのだろうか。

 俺が電話に出ると、継父は開口一番『冬馬、明日はちょっと遅れてきてくれないか』と言った。「なんで」と尋ねると、少し言い淀む。

『駐車スペースの雪かきができてないんだ。冬馬の車が停められない』

 十二月三十日の午後、継父は買い物に行こうと外に出たところで、孝文から声を掛けられたのだという。除雪機を貸してくれ、夜には返すから、と。それで出かける前に道間家に寄り、いつものように除雪機を貸したそうだ。

 買い物から帰宅してからというもの、継父は孝文が除雪機を返却しにくるのをずっと待っていたそうだが、夜になってもまだ孝文は姿を現さないのだという。

『道間さん家の駐車場には車が置いてあったから、急用ができてどこかに出かけたってわけでもなさそうなんだけどな。でもスマホにメッセージを入れても返事がないんだ』

「相手が家にいるなら、今から取りに行けばいいじゃないか」

『いや、もう遅いからやめておくよ。明日の朝に伺うことにする。除雪機を返してもらってからカーポートの雪かきをすることになるだろうから、冬馬は午後から来てくれよ。それまでにはちゃんと綺麗にしておくからさ』

 どうして昨夜、孝文は除雪機を返しにこなかったのだろう。いくら忙しかったとしても、除雪機を隣の家に届けることくらい、簡単に出来そうなものなのに。継父が「駐車場には車が置いてあった」と証言していたことからも、孝文が家の中にいたことはわかっている。

 何か家の外に出ることができない事情でもあったのだろうか。例えば、病気とか、怪我とか。道間孝文が怪我をする姿は簡単に想像できる。元より人の忠告を無視して命綱なしで屋根に上ったり、除雪機の安全装置を勝手に無効化したりするような人だった。除雪作業をしているときに足でも捻挫して、動けなくなっているのかもしれない。

 道間孝文は軽率で、自分の力を過信するところのある人だった。そんな父親のことを、直くんはどう思っていたのだろう。ごくまれに街ですれ違うとき、直くんは無表情で、背中を丸めて俯いていた。きっと父親に振り回されて辛い思いをしてきたのだろうと勝手に心配していたが、不思議なことに直くんは今も実家に居座っているという。確か俺の二つ下だったから、直くんは今年二十四歳になっているはずだった。

 継父との電話を終えた直後は、「孝文が家の外に出られなかったのなら、道間美佳が代わりに返却しにきてくれればよかったのに」と思っていたが、よくよく考えてみれば美佳が孝文の代わりを務めることなどできるはずがなかった。孝文は「この時期は毎年妻と娘だけ帰省している」と言っていた。きっと美佳と楓花ちゃんは今頃、里に帰っているのだろう。

 昨日、道間家には孝文と直くんしかいなかったのだ。

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