オトウサンを殺す動機

『バイク……行った』

 継父の身の回りでバイクを運転する者として、最初に思い浮かんだのはやはり赤羽弓枝だった。しかし、隣に住んでいる道間家の、直くんもバイクを乗り回していた。継父のダイイングメッセージに含まれていた「バイク」が弓枝でなく、直くんのものを指している可能性はないだろうか。

「清水先生、たぶん直くんが犯人なんですよ。何となくそんな気がする。オトウサンの『バイク行った』って台詞は、きっと直くんのバイクのことを言ってるんだ」

 山里の発言を皮切りに、教室のあちこちから声が上がった。

「でも、直くんにはオトウサンを殺す動機がないじゃん」

「じゃあ直くんは無関係なのかな」

「わたしはやっぱり、赤羽弓枝が犯人だと思うよ」

「えー、じゃあオトウサンは自分のお姉さんに殺されちゃったってこと?」

 次第に収拾がつかなくなってきた。俺は咳払いを一つして、興奮気味の生徒たちを「静かに」と制する。

「一旦、バイクの問題は脇に置いておこう」

「でも先生……」

「わからない問題があったら、一旦放っておいてもいいんだよ。テストで難問に当たったときと一緒だ。判断のつかない問題は飛ばして、余った時間を使って最後にもう一度立ち返ればいい。――ダイイングメッセージの前半部分について考えてみようか。俺の予測では、継父は言い始めのあたりで犯人の名前を口にしているはずなんだ。やはり『からだを』が苗字なんだろうか」

 音韻の共通する苗字はなかなか思いつかない。高砂、山里といった苗字ならば完全に母音が一致するが、「先生、俺は犯人じゃないっすよ」と山里。高砂も「私だって違いますよ」と口を尖らせる。

 宮沢がまっすぐに手を挙げていた。指名すると、椅子から立ってハキハキと答える。

「先生、わたし気づきました。犯人は赤羽弓枝です」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、赤羽っていう苗字には『あ』の母音が三つ含まれてるじゃないですか。きっと先生は、『あかばね』を『からだを』と聞き間違えたんですよ」

「まあ確かに音韻は似通っているが、どうも無理やりすぎる感じがするな。それに、『大工』のときと同じことが言える。赤羽弓枝が犯人だとしたら、継父はわざわざ苗字を伝えるようなことはせず、『姉ちゃん』と言うはずだろう」

 喉元に異物がつっかえているような、漠然とした違和感がある。何かを見落としているような気がするのに、それを上手く言語化することができないのだ。握りしめたチョークが手の中で砕けた。

 教室の隅の方で、中村が「やっぱり無理ですよ」と呟くのが聞こえた。

「清水先生、俺たちに論説文の問題を解かせるとき、よく『前後の文脈を読み取れ』って言うじゃないですか。その一文の意味がわからなくても、文の前後に必ずヒントが隠されてるからそこをよく読めって。でも、このダイイングメッセージはたったの二言だけで、文の前後がない。ほとんどノーヒントで本当のダイイングメッセージを探るなんて、土台無理な話だったんですよ」

 中村は成績優秀だが、テストの答案用紙には思いのほか空欄が多い。自分の想定外の難問に出くわすと、すぐに諦めてしまう癖があるのだと思う。

 俺も学生時代は似たような生徒だったから、気持ちは十分理解できる。

「中村、先生は『なるべく空欄を埋めるようにしよう』とよく言ってるだろ。わからない問題は飛ばしてもいいが、制限時間ぎりぎりまで考える努力はするべきだ」

「無理矢理捻りだした答えって、大抵間違ってるじゃないですか」

「間違うのは悪いことじゃない」

 自分自身に言い聞かせるように、声に力を込める。

「大切な試験で難しい問題に直面したとき、簡単に諦めてしまわないようにするためには、普段から根気よく考える訓練をしなきゃいけない。だから先生たちは『空欄を埋めろ』と口を酸っぱくして言うんだよ。そして、これは決して諦めてはならない場面だ」

「ふうん」

「それにな、ダイイングメッセージにも文脈はあるんだよ」

 もう一度文脈を読み取るのだ。俺と継父にとっての文脈とは犯行現場の記憶であり、これまでともに過ごした時間の全てである。

 首から血を流し、仰向けに倒れた継父と、その傍らでエンジン音を鳴らしていた除雪機が脳裏を過る。昨夜の電話で、継父は「カーポートの雪かきをしたいのに、お隣から除雪機をまだ返してもらっていない」というようなことを言っていた。庭にあれが置いてあったということは、継父は今朝になって道間家を訪ね、「除雪機を返却してくれ」と言ったのだろう。

 庭は一面の雪に覆われていた。固く湿った上越の雪だ。その白を横切るように飛び散った大量の血液が、強烈なコントラストを生み出していた。

 凄惨な光景を脳内のスクリーンに映し出す度、曖昧だった疑念が急速に具体的な形を帯びていく。俺は無意識のうちにシャツの胸元をぎゅっと握りしめていた。

「……ありえない」

 継父を発見したとき、その首筋にはボールペンが刺さっていて血がだらだらと流れ出ていたが、大量出血を恐れた俺は傷口には一切触らなかった。そして今も、ボールペンは深く刺さったまま引き抜かれていない。もちろん重傷であることに変わりはないが、少なくとも首筋から勢いよく血が飛び散るような事態は避けられていたはずだ。

 では、庭に残されていたあの大量の血痕は、一体誰のものだったのだろう。

 俺はもう一度黒板を注視する。白いチョークで描かれた線を見つめているうちに、やがて「せつ」という二文字は「雪」へと変換された。

 とうま/からだを/たい雪/に

 バイク/行った

 除雪機という言葉が真っ先に浮かんだ。「たいせつ/に」とはあまりにも音韻がかけ離れているのに、仰向けに倒れた継父の傍でエンジン音を立てていた除雪機が、なぜだか頭から離れてくれない。

 俺は記憶の中の除雪機を、隅々まで観察した。事故防止のために装備されたクラッチレバー、固い雪を砕く回転刃、削れた雪を吸い込んで遠くへと吐き出す排雪口。

『はいせつ……ち』

 排雪口。

 継父は「大切に」ではなく「はいせつぐち」と言ったのかもしれない。俺が単語の中間部分を聞き取れていなかったのだとしたら、「たいせつ……に」と聞き間違えたとしても不自然ではないだろう。排雪口、排雪口と繰り返し呟くうち、継父と交わした会話が、過去の記憶が鮮明になっていった。

 隣から返却された直後の除雪機を使用すると、排雪口からピンクの雪が出てくることがあった。それを見た継父は、『スノースプレーだよ』と言っていたっけ。楓花ちゃんのスノースプレーによってピンクに染められた道間家の敷地内の雪が、除雪機の内部に溜まったままうちの庭まで運ばれてきたため、あのような現象が起こっていたのだ。

 継父のダイイングメッセージが頭の芯に響く。

『はいせつ……ち』

 あの大量の血液が、もとは隣の家のものだったという可能性はないだろうか。

 例えば道間孝文が除雪機に身体を巻き込まれていたのだとしたら、その血や肉片は回転刃だけでなく、除雪機内部の機構や排雪口にもこびりつく。そして除雪機は継父の元へと返却され、継父がそれを使うときになって、血に染まった雪が勢いよく排出される。庭を横切るように、排雪口から真っすぐに伸びていく大量の血液――あの血は、道間孝文のものだったのだ。

 孝文は継父の忠告を無視して、安全機能が作動しない状態で除雪機を使用していた。バック走行をしている最中に転倒してしまえば、彼の足は瞬く間に除雪部へと巻き込まれていっただろう。

「そうか、殺されたのか」

 張り詰めた空気が満ちた教室で、俺の独り言がいやに響いた。

 山里は心底不思議そうに問う。

「殺されたってどういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。道間孝文は怪我をして動けなくなったわけじゃない。殺されたから除雪機を返しに来られなかったんだ。安全機能を失った除雪機を使えば、犯人は簡単に孝文を殺せたはずだ」

「……えっ?」

「背を向けた相手を転ばすことなど容易だ。障害物を置いておけば勝手に足を引っ掛けてくれるかもしれないし、不意打ちで背後から殴りかかれば確実に体勢を崩すことができる。そうすれば後は、除雪機が孝文の爪先を、脛を、太腿を砕きながら進んでくれるのを見ているだけでいい。――犯人は孝文を殺害した後、除雪機の回転刃を取り外して血を拭い、簡易車庫に格納したんだろう。その除雪機はいつものごとく継父の元に返ってきた。そして継父の目の前で、隣の道間家から運搬されてきた血液を排出したんだよ。だから庭は血塗れだったんだ」

 中村が言った。

「でもやっぱり、殺人とは限らないんじゃないですか? ただ転んで足を巻き込んじゃっただけかもしれませんよ。事故だった可能性だって捨てきれない」

「仮に事故だったとしたら、警察や救急車がやってきて近所にもその騒ぎが伝わったはずだろう。でも継父は昨夜の電話では、そんなこと一言も言わなかった」

「じゃあ、誰がやったんですか?」

「直くんに決まってるさ。昨日道間家にいたのは、直くんと孝文の二人きりだったんだからな」

「じゃあ直くんは、自分のお父さんを殺したってことですか?」

 実の父を手にかける動機など、赤の他人である俺には想像することもできないが、「直の考えていることがわからない」とぼやいていた孝文の表情はいつまでも瞼の裏に焼き付いていた。

 恐らく直くんは、排雪口にこびりついた血や肉片にまでは気が回らなかったのだろう。だから今朝、継父が除雪機を引き取りに行った際、凶器である除雪機を素直に返却してしまった。回転刃に付着した血さえ拭ってしまえばバレないとでも思っていたのかもしれない。

 しかし継父が除雪機を駆動した瞬間、排雪口からは大量の血が噴射された。直くんは隣家の窓から見てしまったのだ。孝文の血が白い雪を汚すところを。継父が驚きのあまり身を固くしているところを。

「口封じのための襲撃。これなら、人から恨みを買うはずのない継父が狙われたことに説明がつく。それに道間家の男は、代々名前の一文字目に『孝』を付けるんだ。直くんの名前は孝直(たかなお)。『からだを』とは母音が全て一致する」

「でも、なんだか変ですよ。確かに韻は踏んでいるけど、清水先生のオトウサン、いきなり直くんの下の名前を伝えようとするでしょうか?」

 継父が俺の名を呼ぶ声が、耳元で響く。

『冬馬……身体を……大切……に。大好……きだよ』

 頭を力いっぱい殴られたような衝撃を感じた。「とうま」じゃない。彼は「どうま」と言ったんだ。

『道間孝直……排雪口……バイク、行った』

 継父は初めに犯人の名前を口にした。それでも俺が意図を解さなかったので、排雪口に残った重要な証拠と、犯人の逃走手段という情報を追加したのだ。

 除雪機の血を目撃されたことにより激しく動揺した直くんは、衝動的に継父を襲ってしまった後、恐怖のあまりすぐさまバイクで逃走したのだろう。継父は隣の家から犯人が逃げていく姿を見ていたのだ。

「そうだよな。『大好きだよ』なんて馬鹿馬鹿しいよな」

 現場に残された除雪機や雪を調べるまでは、この推理が正しいかどうかは確定しない。でも――あんなに苦痛に満ちた表情で愛の言葉を伝える人間がいるだろうか? あれは突然命を奪われることになった者の、無念の表情だった。決して、息子を気遣って優しい言葉をかけるときの目ではなかった。

 ああ、これから忙しくなる。警察にきちんと捜査してもらうためには、何と説明すればいいだろうか。今後の段取りを考えながら、自分の胸の内に暗雲が垂れ込めていくのを感じていた。

 どうして彼の言葉を聞き間違えたんだ。自分の想像力の乏しさに失望する。死にかけている人間が「身体を大切に」なんて、言えるわけがないのに。

 三年四組の教室は、いつのまにかひどく静まり返っていた。

 人は人に教えることによって、より物事の理解を深めることができる。だから俺は困難な問題に直面したとき、教壇に立って生徒とやり取りする自分をイメージしながら論理を組み立てる。

 俺は既に答えを導き出した。頭の中の生徒たちはもう役目を終えているはずだったが、しかし、まだ教室に居残っている生徒が一人いる。

「やっぱり、先生は愛されてなかったんですか」

 皮肉っぽく響いたその声は俺が受け持っている生徒のものではなかったが、確かに聞き覚えがあった。

 教壇のすぐ前の席に、男子生徒が一人、行儀よく座っていた。それは鏡の中の俺によく似た姿をしている。中学三年生の清水冬馬だった。

 継父だって人間なのだから、当然自分を襲った犯人のことが憎いだろう。罪を償わせたいだろう。何を傷つく必要がある。そう自分に言い聞かせながらも、もう一人の自分が――俺の知らない俺が、「あの人なら最後に俺の名前を呼んでくれると思っていたのに」と不貞腐れている。

「清水冬馬は愛されてなかったんだ」

 バイタルモニターが不吉なアラームを鳴らし、俺は勢いよく顔を上げた。

 それは脈拍の停止を知らせる音だった。救急隊員が継父の口元に呼吸器を取り付ける。走り続ける救急車の中で心臓マッサージが始まった。

 彼はもうじき死ぬ。

 冬馬、じゃなかった。継父が最後に選んだ言葉は、俺の名前ではなかった。

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