フランス語を“10回”習い、片道切符でパリへ

こぐれ その計画に乗っかる形で、私たちも片道切符でヨーロッパに行こうということになったのよね。

近田 じゃあ、帰国後にサクランボ・ユートピアに住む予定はなかったんだ。

こぐれ そう。だから、ちゃんとビザは取って行ったのよ。

近田 ある程度、向こうに住む用意は整えてたの?

こぐれ うん。例のアップルハウスに、駐日ベルギー大使館に勤めてる20代前半の若い女の子が出入りしてたから、その子からちょっとフランス語を教えてもらったりもしたし。

近田 何回ぐらい習ったの?

こぐれ 10回ぐらいかな。麹町にあった彼女の家に行って勉強したんだけど、まあ、たかだか10回じゃ全然物にならない(笑)。

 その時のキッドブラザースの海外公演の音楽は加藤和彦が手がけてたから、アエロフロートの機内で僕らの前の席には、加藤和彦とミカ夫妻が座ってたよ。

近田 1972年春というと、ちょうど、彼らが結成したサディスティック・ミカ・バンドがデビューする直前に当たるね。

 当時は、時代の最先端といえばロンドンだったから、本当はロンドンに行きたかったんだけど、切符なんかの行きがかり上、パリに住むことになった。

近田 しかしさあ、先立つお金はどうしたのよ?

こぐれ 大変でしたよ。それまで稼いだお金をカツカツに使ってさ。

近田 パリでは、何の仕事をしてたの?

こぐれ 当時「SUZUYA」っていう婦人服のブランドがあったじゃない?

近田 ああ、昔はそこら中に店があったよね。「青山ベルコモンズ」も、鈴屋が運営してたんじゃなかったっけ?

こぐれ そう。あの鈴屋が、当時、パリにブティックを出したばかりだったのよ。そこでお直しのスタッフを探してるって聞いて、雇ってもらったの。その傍ら、私は蚤の市に対してもフェチで、仕事とは別に、古着を買ってきては直して着てたわけ。

 クリニャンクールとか、モントルイユとかの蚤の市にはよく行ったよね。

近田 公私にわたってお直しばっかりしてたんだ。よっぽど好きなんだね。

こぐれ そうしたら、それを見た会社のデザイナーから、パリでやってた鈴屋のショーの一部を任されるようになった。

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