八雲が絶大な信頼を寄せた元会津藩士

 漢学者の秋月悌次郎(ていじろう、1824~1900)との出会いも大きかったようですね。元会津藩士で、江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学んだ俊才でした。藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職に就いたのに従って、公武合体策を進め、戊辰(ぼしん)戦争で新政府軍と戦って禁固処分をうけます。その後、特赦され、東京大学予備門で教えます。のちに熊本で八雲と同僚になり、学生たちにたいそう慕われたそうです。

 敗北した会津藩の中枢にいて明治維新の激流にのみ込まれながら、不屈の精神で乗り越えてきた人物に、八雲は絶大な信頼を寄せました。

 言葉は通じませんでしたが、「近づくだけで暖かくなる暖炉のような人」と書いています。

 少年時代、アイルランドで宿した精神と響き合ったのでしょう。かの地にもイングラドと対峙(たいじ)して、敗北し続けた歴史がありました。

ほかの同僚たちとの関係は?

 赴任してまもない頃、八雲の足元が揺さぶられる動きが起きていました。1891(明治24)年末の帝国議会で、第五高等中学校を含む高等中学校の廃止が議決されたのです。議会の解散によって廃止は免れましたが、廃止法案はくすぶり続けます。八雲は職を失う恐れを抱きながら勤務を続けました(西川盛雄「ハーンの熊本の印象は何処から来たか?」『赤煉瓦通信』第15号)。

 結果、この法案は廃案になりましたが、政府のために働くのは流砂の上に建物を建てるようなものだと西田への書簡に痛切な思いを明かしています。

 ほかの同僚たちとの関わりは、良好とは言えなかったようです。当時の高等教育にたずさわる多くの教員は西洋化のみを信奉しており、伝統は捨て去るべきだ、との考えが支配的でした。古き日本を愛する八雲は、所在ない思いを抱きます。赴任の1年余り後、嘉納校長が東京へ転任してしまったことも痛かったようです。

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