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私が溺れて沈んだら、きっと誰かが引き上げてくれる

 次の日は3人でサップの体験をした。梅雨が明けたばかりの空は容赦なく私の肌を焦がし続ける。「穏やかで漕ぎやすいルートと、綺麗だけど流れがあって少し漕ぐのが大変なルートがありますけど、どっちにしますか?」とインストラクターのお姉さんに聞かれ、私はすかさず「大変なほうで」と返事をした。どうせやるなら大変な方をやってみたい。大潮で浅くなった海の上に、ボードに乗って一寸法師のように漕ぎ出していくと、すぐ近くでウミガメが浮かぶように泳いでいくのが見えた。目につくものにいちいち「ウミガメだ!」と反応する私に、ふたりが「サンゴだよ」「木だよ」と訂正を入れる。普段から運動不足で筋肉もないせいで、ときどき遅れながらも必死に漕いだ。足のつかない深いところに到着し、今度はシュノーケルを装着して海に飛び込む。前日に練習した泳ぎをある程度身体は記憶していて、今日は海水を飲んで溺れかけるようなこともなかった。恋人と並んで、海の底に見えるサンゴやウツボを指さしながら泳いでいく。無音の中で、お互いの存在を確認し合いながら先へ先へと進んでいった。これからずっと、こういうふうにして生きていけたらいい。ときどき目線を交わしながら、一緒に面白いものを見て、焦らずゆっくり泳いでいこう。彼がビキニの形にくっきり日焼けしたおしりに気づいて笑う。それを見て、私はどうなってもきっと大丈夫だと思った。

 ある程度泳いだところで、昨日はできなかった潜水に挑戦してみることにした。

「おヘソの辺りで下に向かって真っすぐ手を伸ばして、身体が海底と垂直になったところで足を伸ばし、しばらく身体が沈むのを待ちます。身体が沈み切ったら足を動かしてより深いところへ泳いでみましょう」

 インストラクターの言葉を頭の中で繰り返しながら息を整える。いざとなるとやはり怖い。やめておこうかとも考えたが、自分がやらなきゃ気が済まない性格だということもわかっていた。もっと近くで海の底を見てみたい。私が溺れて沈んだら、きっと誰かが引き上げてくれる。私はみんなに守られている。それがわかっているから、私はいつも流れの強いほうへ進むのだろう。周りを見渡してから、できるだけ大きく息を吸い込んで、私は海の底に向かって身体を曲げた。

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伊藤亜和(いとう・あわ)

文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。

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Column

伊藤亜和「魔女になりたい」

今最も注目されるフレッシュな文筆家・伊藤亜和さんのエッセイ連載がCREA WEBでスタート。幼い頃から魔女という存在に憧れていた伊藤さんが紡ぐ、都会で才能をふるって生きる“現代の魔女”たちのドラマティックな物語にどうぞご期待ください。

2025.07.01(火)
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香