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やはり私は姓を変えたいと思った
まだ状況が理解しきれていない恋人を半ば引きずるようにニューグランドまで引っ張っていって、プランナーの「マッカーサーが新婚旅行で宿泊した」とか「ユーミンがここで結婚式を挙げた」とかの説明を聞きながら本館を見て回った。はじめて来るらしかった彼は、最初に覗かせてもらった安土桃山建築の部屋をすっかり気に入ってしまったらしく、それからは私よりも若干前のめりで説明を聞いていた。最後に案内された部屋には壁一面の大きな窓があり、そこからは海に浮かぶ氷川丸を真正面から見ることができた。いつのまにか雨がやんで、ベイブリッジの上には見たこともないくらい巨大な虹が浮かんでいる。プランナーが「ニューグランドで虹を見ると、またニューグランドに来れるっていうジンクスがあるんですよ!」と、2秒で考えたようなジンクスを言い放ち、これからこの部屋で懇親会をするらしい会社の幹事は「虹だっ! みなさん! 虹が出てます!」とはしゃぎながら会場を飛び出していった。大の大人たちが大きな虹で浮き立っているなか、私たちもなぜか「おめでとうございます」「おめでとうございます」と方々から言われて「これはもう今日のうちに決めるしかないのではないか」という雰囲気になりつつあった。どうするの、いやさすがに今日は、などと言いながらも大まかな見積もりを出してもらう。やはり今すぐ払えるような金額ではないが、支払いまでには思ったよりも猶予があるらしい。私たちは1年後に結婚式をすることに決めた。
決まってしまったのだからもうやるしかない。ふたりして「本当に結婚するんだ……」と言いながら、具体的なことも少しずつ決めていく。ひとまず同棲をしてみて、やっていけそうならそのまま暮らし、だめそうだったら隣同士の部屋を借りようということになった。世の中には事実婚という選択を取る夫婦もいるけれど、私はどちらかというと書面にこだわるタイプだ。逆に言えば、夫婦だと証明するものさえあれば、相手がどこにいようとあまり気にならない性格なのだと思う。婚姻届なんて単なる紙切れに過ぎないことは解っているけど、私は彼と夫婦になることを公に承認されたい。社会から与えられた肩書や立場で、この国に存在しても良いという理由をひとつでも増やしたいし、彼の家族にも受け入れてもらいたい。当たり前に姓を変えるつもりでいた私に、彼は「僕が伊藤になってもいいよ」と言ってくれた。そんなことができるのかと私はとても驚き嬉しく思ったが、やはり私は姓を変えたいと思った。変えるべきではなく、変えたいと思った。
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伊藤亜和(いとう・あわ)
文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。

Column
伊藤亜和「魔女になりたい」
今最も注目されるフレッシュな文筆家・伊藤亜和さんのエッセイ連載がCREA WEBでスタート。幼い頃から魔女という存在に憧れていた伊藤さんが紡ぐ、都会で才能をふるって生きる“現代の魔女”たちのドラマティックな物語にどうぞご期待ください。
2025.07.01(火)
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香