
『わるい食べもの』シリーズの食エッセイでもおなじみ、食いしん坊作家の千早茜さんが、子供の頃から特別に思うチョコレート。連載2回目は、チョコレートではなく「ショコラ」を初めて知った時のことをつづります。
先日、仕事でお会いした方から「千早さんが一番好きなチョコレートはなんですか?」と訊かれた。私が毎年、SNSで「1日1チョコ」と称してバレンタインデーからホワイトデーまで毎日食べたチョコレートの感想を発信しているのを見てくれたようだ。バレンタインの時期は、普段は入荷しないフランスをはじめとした世界のチョコレートが百貨店の売り場にあふれ、チョコ好きにとっては祭典のようになり、財布の紐がゆるみまくる。毎年、絶対に新作は手に入れると決めているショコラトリーは両手の指ではおさまらず、また味わいたいと一年待ち望んだ定番商品も見逃せない。とても、一番なんて決められない。素直にそう伝えたが、なんとなくすっきりしない気持ちが翌日まで残った。
最も親しみがあるチョコレートは「赤ガーナ」と呼んでいる『LOTTE』の「ガーナミルク」だ。これは、いつも冷蔵庫に入っていて、仕事の供であり、精神の安定剤であり、馴染みきった家族のような存在だ。よって「一番」かと問われると迷う。ハレよりはケに近いチョコレートだからだろう。
そういう意味では、ショコラは完全にハレの存在だ。チョコレートとショコラは違う。明確な定義ではなく、私の中の概念としてだ。ショコラは大人になってから知ったフランス菓子の中のチョコレートだ。
初めて「ショコラ」という単語を認識した瞬間は覚えている。子供と大人の中間の、大学生の時だった。大きな家に住んでいる友人がいた。友人の両親は仕事が忙しく家を空けがちだったため、たまにその子の家に行って一緒にご飯を作ったり泊まったりしていた。ある日、遊びにいくと出張から帰ったばかりという友人の父親がいた。挨拶をすると、友人の父親は茶色いリボンのかかった平たい紙箱をくれた。

「これは世界一のショコラだよ」と彼は言い、仕事だとまた家を出ていった。
中にはカカオパウダーのかかったトリュフがごろごろと入っていた。トリュフは知っていた。小さい頃から菓子を作るのが好きだったのでチョコレートを刻んで溶かし生クリームや洋酒と混ぜたトリュフを作ったことがあった。よく似た、石ころのような見た目。
指先でひとつ摘まんで口に入れ、驚愕した。香りたつ苦いカカオパウダー、ぱきりと割れる卵の殻のような薄いチョコレート。その中の、もっちりした食感に、これはなんだ、と雷に貫かれたようになった。濃厚なチョコレートの香りがするが、舌触りが違う。簡単に液体化しないのに、限りなくなめらかで、ふわりと溶ける。自分の手で丸めた、トリュフと呼んでいた代物とはまったく違った。脳がとろけそうになった。フランスのショコラ、そしてチョコレートと生クリームを混ぜたガナッシュなるものの洗礼を受けた瞬間だった。
友人の父親が「世界一」と言ったそのショコラトリーは『LA MAISON DU CHOCOLAT』、創業者のロベール・ランクスは「ガナッシュの魔術師」と称されたショコラティエだ。『LA MAISON DU CHOCOLAT』は今やあちこちの百貨店に入っているが、私が大学生の時は東京に第一号店ができたばかりだった。京都の学生がひょいひょい買いにいけるものではない。働きだすようになった頃、大阪の梅田阪急デパートに入り、浮きたつような心地で買いにいった。茶色いリボンのかかった小さなショコラの箱を手にした時、掌の中に世界一があるのだと幸福感に満たされた。
今も『LA MAISON DU CHOCOLAT』のトリュフは好きだ。オランジェットもエクレールも大好きで、よく買っている。けれど、無数のショコラトリーも知ってしまい、大好きが増えてしまって「世界一」を決められない。幸せな悩みではあるのだけど。
いつの日か、誰かに「世界一のショコラだよ」と言ってリボンのかかった箱を手渡してみたい。その時、私は世界一の甘美さを誰かと共有するのだ。
千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。立命館大学文学部卒業。2008年「魚」(受賞後「魚神」と改題)で第21回小説すばる新人賞受賞しデビュー。09年『魚神』で第37回泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞、23年『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞。近著に、西淑さんの挿絵も美しい短編集『眠れない夜のために』などがある。

Column
あまくて、にがい、ばくばく
デビュー以来数々の文学賞を受賞してきた千早茜さん。繊細かつ詩情豊かな文章で読者を魅了する千早さんのもう一つの魅力は、嗅覚鋭く美味しいものを感知する食への姿勢。そんな千早さんが「特別」と思うチョコレートにまつわるエッセイが今回からスタートします。西淑さんのイラストとともに、さまざまな顔をもつチョコレートを堪能してください。
2025.06.10(火)
文=千早茜
イラスト=西淑