昼食の膳は一汁六菜の野菜料理
すでに厨房では助手達が、昼食の準備を進めている。やがて食事が運ばれた。
大小の黒塗り漆器碗に盛られた料理が、計6種類用意される。一汁六菜、当然ながら、すべてが野菜料理である。
紫と白、黒、オレンジ、深紅と薄緑、深緑、白と、それぞれの料理の色が違っている点が素晴らしい。寺の精進料理なので、魚や肉はなく、ニンニクやニラなど韓国料理に欠かせない野菜も使われていない。

手をつける前に、スニムの言葉にしたがって、皆が唱える儀式が始まった。
「この食べ物はどこから来たのだろうか。自分の徳行ではいただくのが恥ずかしい、心のあらゆる欲心を捨て、肉体を支える薬として、道業を成し遂げるためにこの供養(食事)をいただきます」。背筋が伸びる。
最初の昼食の献立は以下である。赤かぶの水キムチ、青菜の自家製年代物カンジャン(醤油)あえ、白菜キムチ、青唐辛子のあえもの柿の甘味噌あえ。煮大根。ここに自家製で長年寝かせた味噌=テンジャンで作った味噌汁と、とうもろこしを炊き込んだご飯がつく。
どれも淡い味付けで、体が清められていくような味わいであった。
大根と白菜キムチの淡味に衝撃を受ける
中でも驚いたのが、煮大根と白菜キムチである。

大根を噛めば噛むほど、食べれば食べるほど、心に平安が訪れる。塩気はほとんどなく、ほのかな甘みだけが、密やかにたゆたっていた。味わえば味わうほどに、舌が洗われていく。
大根の真の滋味とは、なんなのか。そう料理が問うてくる。
細い拍子切りに切った大根に、エゴマ油と生姜を、ほんの少し入れ、火にかけたものだという。つまり大根の水分だけで炊かれた大根料理である。
それは世俗の味にまみれた舌を洗い、我々が持っている本来の感覚を目覚まさせる。この大根に代表されるような味わいの料理が、三日間出された。

一年塩漬にし、醤油で一年、味噌で一年漬け、3年寝かせたという、6年ものの大根チャンアチ(漬物)。ナズナの葉を刻み、何十回も木ベラを回しながら、粘度を増していく南瓜の粥。つるにんじんを叩いたあえもの。どれをいただいても、安寧が訪れ、瞑想したかのような平穏が体に沈殿していく。
「ふぅー」。余計な力が抜け、息を吐く。その瞬間、少しだけ自然と繋がった気がする。そんな料理だった。
今まで出会ったことのない、未知の美味しさが染みたキムチ
一方、白菜キムチの味わいはどうだろう。

食べた瞬間、「なに?」と、箸を落としそうになった。白菜キムチを食べ初めて50年、夥しい数の白菜キムチを食べてきたが、こんなキムチは食べたことはない。味の方向性は同じである。だが違う。
複雑な旨みが絡み合っているが、どこまでも丸い。優しい、柑橘のような香りがする。
辛いが、強さが微塵もなく、雑味もなく、味わいが澄んでいる。そしてなにより、白菜の甘さやみずみずしさが生きている。キムチを食べるたびに、背筋が伸びる。そんなキムチだった。
このキムチ作りをこれから習うのである。
料理とはすなわち瞑想
昼食後は、白菜のカットと塩漬け、薬念 (薬味=ヤンニョム)作りの作業だった。

軽く塩水につけた白菜を、四つに切り、洗う。再び軽く塩して、樽に詰める。単純な作業だが、スニムは厳しい。
まず洗い方だが、バシャバシャと乱暴に洗ってはいけない。葉先がちぎれてしまうからである。さらに、四つに切るときも正確に四つ割りしなくてはいけない。味の均一性が損なわれるからである。白菜を扱うスニムの手は素早いが、丁寧である。いかに無駄を出さないか。
白菜を活かすためにはなにをしなくてはいけないか。手先から白菜への愛が滲み出しているような動きに、スニムの料理に対する哲学がある。
「料理は瞑想です」と、スニムはいう。瞑想するように自我を捨て、無心になって野菜や食材と会話することなのだろうか。世界のシェフたちは彼女に技術や伝統料理のレシピを学びにきているのではないのだろう。彼女の料理に対する姿勢と精神、哲学を学びにきているのだと、その時思った。
「手の味」をしみ込ませる丁寧なキムチ作り

翌日の薬念を白菜などに塗り込む仕事にも、その精神は宿っている。僧院ゆえに、アミの塩辛も魚醤もニンニクもネギも入れない。入れるのは、野菜類、茸、海藻だけである。
しかし一番大事なところはそこではない。薬念をつける時も、葉一枚一枚には塗り込まない。根元だけを中心に塗っていく。葉には塗らないでも、つけ込むうちに味が染みていくからである。
それは薬念を無駄にしないという意味も含まれている。
スニムが白菜に触る時、素手で薬念を塗るときは、我が子の頬を触るような慈しみがあった。

手の味である。この手から慈愛が滲み出て、キムチを美味しくさせるのだろう。すべてが、白菜を労りながら、微塵も無駄にせず、おいしく食べてもらおうという工夫が込められている。だからスニムの作るキムチは、優しいのである。
慈愛とは、「慈しみという愛情を注いで大切にする」という意味である。スニムの料理は、食材に慈しみを注いで、丁寧に丹念に作られている。食材と食べる人へかけられた思いが、痛いほど伝わってくる。この意味を料理から得られてこそ、人間は力と助けを得られ、大袈裟に言えば、生きている意味と感謝を考えるのではないだろうか。
目の前にある料理の一噛み一噛みから、料理の哲学が降ってくる。味わいながら黙考し、思索を深める。これは一種の瞑想であり、悟りへの登り口ではないか。そこにはもう、おいしいという感覚も、体が清められるという意識もなかった。


2025.03.14(金)
文・写真=マッキー牧元
構成=嶺月香里