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細野さんが「この曲を作った筒美京平という人は天才だよ」と

 当時、筒美さんは国立競技場そばの小高い丘の上に建つマンションに住んでいて、「玄関ホールだけでも暮らせる」ほど広く豪華な部屋だった、と松本さんは振り返る。「ぼくもヒット曲をたくさん書けばこんなところに住めるのかなと思ってさ(笑)」。

 後年、筒美さんは、松本さんの第一印象について聞かれたときに、「なんだか学生っぽくて書生さんみたいな人だなあと思った」と答えている。松本さんは、初めて対面するヒットメーカーに、少々緊張しながら、「ぼくが詞とプロデュースを手がけたアルバムです。聴いてください」と、南佳孝のファーストアルバム『摩天楼のヒロイン』(73年)を差し出したという。

「京平さんは、ぼくのレコードを一聴すると、こう言ったんだ。『こういう好きなことをやって、ずっと食べられるならいいよね』って。ショックだった。あまりにも図星でさ。はっぴいえんどにしても佳孝にしても、売れるに越したことはないし、売れたいとは思っていた。でも、いいものを残したい、という思いのほうがぼくは強かった。初めて書いたチューリップの曲もそうだったと思う。

 だけど、歌謡界で職業作詞家になる、というのはそれじゃダメ、売れなくちゃいけない、プロフェッショナルとはそういうことなんだよ、と先制パンチを食らった気分になったんだ」

 ところで、松本さんが筒美さんという作曲家を初めて認識したのはいつでしたか?

「大学生の頃。細野(晴臣)さんが教えてくれた。ある日、細野さんの家に行ったら、西田佐知子の『くれないホテル』がかかってて。『この曲を作った筒美京平という人は天才だよ』って言ったんだ。

 もちろん、それ以前に『ブルー・ライト・ヨコハマ』がヒットしていたから耳にはしていたんだ。でも、意識をするようになったのはそこから。ぼくらは洋楽一辺倒だったし、細野さんが歌謡曲を聴いたりしてるなんて思いもしなかったから、驚いたというのもある。

 それでぼくの心に『筒美京平』という名が刻まれた。でも、京平さんと仕事をするようになってから、『くれないホテル』が素晴らしい曲だと思うという話をしたら、『ああ、あの売れなかった曲ね』って苦虫を噛みつぶしたような顔をしたんだよ(笑)。とにかく、彼にとって、『いい曲』とは『売れる曲』という絶対条件があったんだ」

 しかし筒美さんはなぜ、「青二才」の松本さんに興味を持ったのだろう。単に「詞が気に入った」だけでは家に呼んだりしないだろう。

2024.11.16(土)
文=辛島いづみ
撮影=平松市聖