万葉の歌人から義経まで……この地にゆかりのある偉人たち

 この光景に心奪われたのが、万葉の歌人・大伴家持(おおとものやかもち)。

 奈良時代の746年、29歳で越中国守として赴任し、少納言として帰京するまでの5年間に、223首もの歌を詠んだそう。

立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし

現代語訳:立山に降り置いている雪は、夏のいま見ても見あきることがない。神の山だからにちがいない。(高岡市万葉歴史館より)

 万葉の頃の夏は、今の4~6月。夏に雪が残った山を初めて見た大伴家持はさぞや感動したことでしょう。

 また、松尾芭蕉も『奥の細道』の途上、この界隈にも立ち寄ったもよう。ところが同行した曾良の随行記には一泊したとあるのに、そのことについて松尾芭蕉は触れていません。どうやら、当時も派閥的なものがあったようで、俳諧においてここ越中は京都の貞門の縄張りだったとか!?

 ちなみに、雨晴海岸の前景である「有機海(女岩)」は2014年3月に「おくのほそ道の風景地」として国から名勝指定を受けています(のちに指定範囲が拡大され、「有機海」に名称変更)。

 名称について、『万葉集』では「渋谿(しぶたに)」、『奥の細道』では「有磯海」と記された雨晴海岸。今の名前は、義経の伝説によるものだそう。

 源義経が奥州に落ちのびる際、ここを通りかかった時に、にわか雨にあいました。そして浜辺の巨岩の下で弁慶はじめ家来たちと共に雨宿りをしたそう。雨をここで晴らしたことという伝承に由来しています。

 その義経たちが雨宿りをした岩は「義経岩」と呼ばれ、岩崎ノ鼻灯台のあるあたりから雨晴キャンプ場までの約3キロ続く雨晴海岸の中でもメインの撮影ポイントといえそうです。少し沖に浮かぶ奇岩、女岩(めいわ)が景観のアクセントになっています。

2024.10.19(土)
文・撮影=古関千恵子