私たち世代は、多様な価値を認める寛容な大人を演じつつ、どう生きるべきか、この社会をどういうものとして残していくのか、思考や価値を野放図に拡散させ収拾がつかなくなった混とんを若者にただ残してしまったのではないかと悩んでいます。どうお考えになりますか? 私たち大人は、若者の悲痛な叫びにどう応えるべきでしょうか?

 社会の最新事情を捉えつつ、構造的なひずみについて言及される武田さんのワザを見せていただいたようなご質問で、さすがだなと勉強になりました。長いキャリアをメディアの第一線で活躍されてきた人の凄みを感じます。そのような方にご相談をいただけるなんて本当に光栄です。

 

「個性」や「自由」という用語を使わせているのは大人ではないか

「個性」と「自由」が客層に向けたある種のマーケティング的な用語であることに武田さんは鋭敏に気づいてしまう。「多様」も同じく、見えないレイヤーで予め決定された範囲内での「多様」しか我々の社会では許されない、ということにもお気づきでいらっしゃることでしょう。その範囲を一歩でも踏み出せば、あっという間に炎上の火種になってしまう。許される範囲内での「多様」の中で、カッコ付きの「個性」や「自由」という用語を使わせているのは大人ではないかという罪の意識を持っていらっしゃるのですよね。

 その武田さんの姿勢には、真摯なものがあると思います。もしかするとそこまで見通せる武田さんなら、当ご相談ももちろん読者がご覧になることを想定して設計されているのだろうとも思いますし、その知性の切れ味にセクシーさすら感じます。

 私自身ももちろん、若者たちに伸び伸びと頑張ってほしいと思います。ただ、仮に若者たちにユートピアを用意してあげられたとして、それが本当に若者にとって望ましいことなのかどうかは、科学的にはなんともいえないというところが悩ましいんです。

2024.10.05(土)