高校では5000mでも15分を切れなかったんですが、入学半年で14分38が出て、箱根駅伝の予選会でも182番になりました。当時、100番以内で学連選抜が見えてくる、といわれていたので、もう少し頑張ったら本当に箱根を走れるんじゃないか、とその時点でまたギアが入りました。
――練習方法はもちろん、指導者との出会いによって大きく勝負の行方が変わる様が『俺たちの箱根駅伝』でも描かれていますが、川内さんご自身の師弟関係はいかがでしたか?
川内 学習院の監督、コーチ、先輩方のやり方はすごく合っていたのだと思います。基本的には自主性が重んじられており、選手達が自分でメニューを組み立て、監督とコーチがそれを微修正する。
監督もコーチも、OBのボランティアだったのですが、土日や平日の夜も顔を出してくれ、コーチは自らも走って背中を見せてくれました。大学入学までの指導者というのは、椅子に座って指示を出し、厳しく指導して……という方が多かったので、大学で出会ったコーチの姿は新鮮で憧れでしたね。
練習の仕方もガラッと変わりました。高校まではスピード重視で、当然のように週5で朝練をこなすようなハードな練習を積んでいました。しかし、大学では距離を走るための足作りの大切さを教えられ、朝練もなく、週2回のポイント練習で、設定も高校よりも緩いタイムでした。こんな緩い練習で強くなれるのかな、と思ったこともありましたが、このやり方が、怪我をせずに強くなるのにぴったり合っていたんです。1回に走りこむ距離は長くなりましたが、スピード練習の質も回数も減ったのに、秋には一気にタイムが伸びたので驚きました。高校時代は、県大会止まりだった僕のような選手が、箱根駅伝を2度も走ることが出来たのは、監督、コーチに出会えたから。とても感謝しています。
――川内さんは卒業後、埼玉県庁に入庁、「市民ランナー」として快挙を成し遂げてこられました。自分の力で走る、というやり方がすごく合っていらしたのではないかと思います。
2024.09.26(木)