「大人しくおし! もう、時間がないんだから」

 いよいよ恐慌状態になりかけた墨子の耳に、突如、甲高い悲鳴が届いた。

 庭の向こう――母のいる、邸の方からだ。

「こいつを早く!」

 青嵐が怒鳴った時、綺麗に整えられた躑躅(つつじ)の垣から、見慣れない男達が飛び出してきた。

 墨子は竦みあがった。

 お母さま、お父さま! 誰か助けて!

 口を布でふさがれ、麻の袋へと放り込まれる。

 暑くて苦しくて、そして何より恐ろしくて、それきり何も分からなくなってしまった。

 次に気が付いた時、墨子は今までに見たことのないような、粗末な小屋に閉じ込められていた。

 格子戸からは金色の光が漏れ、すでに黄昏時となっていることを知った。

 床には藁が敷かれ、農具と思しき壊れた道具が壁に立てかけられている。

 絹の細長(ほそなが)は、気を失っているうちに、信じられないくらいごわごわした粗末な着物に替えられてしまっていた。藁の上で恐る恐る立ち上がった墨子は、そこで、長く整えられていた髪が、ばっさり切られていることに気付いて仰天した。

 母親ゆずりの、くせひとつない、自慢の黒髪だったのに!

「目が覚めたかい」

 にぶく軋む引き戸を開けて、青嵐が小屋に入ってきた。

 墨子は反射的に叫んでいた。

「近付くな、この、ぶれいもの!」

 咄嗟に手に触れていたものを投げつけたが、軽い藁は、女に遠く届かないまま、ひらひらと舞い落ちていった。

「わたしを誰だと思っているの。こんなことをして、お父さまが知ったらすぐに――」

「黙りな!」

 その瞬間、頬に鋭い衝撃が走った。

 地面に倒れ、口の中に血の味がして、ようやく、顔を叩かれたのだと知った。

「お前はもう、南家のお姫様じゃないんだ。これから先、いっぺんだって家のことを口にしてみな。こんなもんじゃ済まさないよ」

 こんなに怖い顔を向けられたことも、ぶたれたことも、大きな声で怒鳴られたことも、生まれて初めての経験だった。

2024.07.04(木)