大人達の難しい事情を、理解していたわけではない。
だが、父も母も、父母に侍る周囲の者達も、弟宮が邪魔な存在であることは誰に憚るでもなく口にしていたから、ただ弟宮は『悪いもの』なのだと、信じて疑っていなかったのだ。
忘れもしない。
その女が華音亭にやって来たのは、新緑のみずみずしい、とある晴れた朝のことだった。
梔子の花の香りが漂い、滑らかな泥の上に横たわる澄んだ水面に、玉のようなしずくを乗せた蓮の葉が青々と広がっていた。
ちょうどその時、墨子の周囲には人がいなかった。
侍女が、水差しを取りに戻ったのだったか。残された墨子はひとり、四阿で蓮池を泳ぐ青蛙を眺めていたのだった。
「あんたが、夕虹の娘だね」
静かな声と共に、蚊遣りの香の煙にまぎれるようにして、ひとりの尼が現れた。
頭に頭巾を巻き、暗い色をした衣を纏った女だ。
当時五つだった墨子は、その尼を老婆だと思った。
墨子の身の回りの世話をする女達は、みんな若くて優しかったが、そいつは眉間に深い皺を刻み、何やら厳しい面差しをしていて、なんとも気味が悪かったのだ。
「あなた、だあれ」
「アタシは青嵐だ。昔、あんたの母さんを育てた女のうちの一人だよ」
「お母さまの羽母なの?」
それにしては、随分とぶっきらぼうで、礼儀のなっていない女だと思った。
「あんたの母さんが呼んでいる。おいで」
言うが早いか、拒否する間もなく、女は墨子の手を取って歩き始めた。
履物を履く時間すら惜しむような性急さに、墨子は面食らった。
しかも、だんだんと早足となり、女は邸から離れる方向に向かっていくのだ。
「ねえ、どこへ行くの。母屋はあちらよ」
青嵐は無言だった。
墨子はどんどん恐ろしくなっていった。
何かおかしい。もしやこの女は、ひとさらいではないだろうか。
「だれか」
助けを呼ぼうとした瞬間、女は墨子の口を手で覆った。
2024.07.04(木)