墨子は、言葉を覚えるのと並行して、花の名前を覚えて育ったのだ。

 暗い部屋に閉じこもり、雛遊びをするよりも、母に手を引かれながら、ひとつひとつの花の名前を教えてもらうほうが、はるかに楽しかった。

 幼かった娘の目から見ても、父は母にほれ込んでいたように思う。

 自慢げに墨子に語って聞かせることには、父には決まった許婚がいたのに、それを蹴って母を正室に迎えたのだという。挙句、山内(やまうち)を代表する四大貴族の当主ともあろう人が、男児がないまま、一人娘の墨子を溺愛していたのだった。

 跡継ぎがいないことで、他から何も言われなかったはずはないのだが、父は、母のほかに側室を持とうとはしなかった。

 墨子にも弟が必要だわ、ときつい調子で言った母に対し、父が鷹揚に応えた言葉を覚えている。

「なあに。焦らなくても、そのうち出来るさ」

 側室は持たないからお前が焦る必要はない。私が百歳まで当主として頑張ればいいだけのことだ、と笑う。

「それに、我々にはこの子がいる」

 間違いなく、お前に似て美人になるぞ、と墨子の頭を撫でる父は満足そうだった。

「墨子はこんなに可愛いのだから、長束彦(なつかひこ)殿下だって大切にしてくださるに違いない。いずれ、私の娘が金烏の妻となり、母となるのだ!」

 そう言って墨子を抱き上げ、くるくると回した。

 墨子はきゃあきゃあと声を上げながら大喜びで、それに困ったような顔をしつつも、母だってまんざらではない様子であった。

 墨子は、自分は日嗣の御子長束彦の妻になるのだと思っていた。

 当時から、弟宮に譲位の可能性は囁かれていたはずなのだが、父はそれを全く気にしていなかった。いずれ長束彦は山内の頂点に立つし、お前は彼の正室として次代の金烏を産むのだ、と言い続けていたのだ。

「心配するな。父が、すぐになんとかしてあげるさ」

 弟宮なんか、その気になればどうとでもなる、と。

 満ち足りた幸せな日々の中で、唯一、不穏な影を持って語られたのが、弟宮の存在だった。墨子自身、幼心に「はやくいなくなってしまえばいいのに」と思っていたくらいだ。

2024.07.04(木)