まあ、余裕がなかったんだね、と青嵐は嘆息する。

「教育係なんて立派なものじゃなかったが、実際に、あんたの母親の卵を温めたのは、このアタシなんだ」

 ふと、青嵐は視線を己の膝へと落とした。

 本当は、宮烏の礼儀などよりも、もっと大事なことを教えてやりたかった、と囁く。

「馬鹿な子だよ。本当に」

 初めて、青嵐の声が震えた。

 墨子は膝でにじり寄り、青嵐の顔を覗きこんだ。

「命をかけて、私を守ろうとしてくれたのに、辛く当たってすまなかった。そして、本当にありがとう」

 青嵐は、無言で頭を横に振る。そしてふと思い出したように、傍らに置いてあった包みを差し出した。

「アタシからあんたに渡せるのは、これくらいだ」

「これは――」

 包みを開いて、瞠目する。

 そこにあったのは、つやつやとした、見事な(かもじ)だった。

「あの時に切った、お前の髪で作ったんだ」

 どうしても捨てられなくてね、と言いながら、青嵐は母親のような手つきで、そっと墨子の短い髪を撫でた。

「髪が伸び揃うまで、時間がかかるだろう。しばらくはこれをお使い」

「青嵐――」

 ぶっきらぼうで、恐い女だったが、それでも彼女は、ずっと墨子の味方だったのだ。

 青嵐は、真剣な眼ざしで墨子を射抜いた。

「いいかい。今のお前に、選択肢なんかない。南家の宮烏に生まれちまったんだから仕方ないと諦めな。どうせ逃げ回っても殺されるだけなんだから、腹を決めて、自分の居場所は、自分で勝ち取っておいで」

 夕虹は間違えた。母親の失敗に学ぶことだ、と。

「蛇の道だ。油断せず、自分の身は、自分で守るんだよ」

「ああ……分かった。心に刻む」

 髢を脇に置き、墨子はまっすぐに青嵐に向き直った。そして、綺麗に手を揃え、深々と頭を下げたのだった。

「お世話になりました。どうか、お元気で」

*     *     *

 それにしても、あの男の正室候補として宮烏に戻るなんて、何とまあ、不思議なめぐりあわせもあったものだ。

2024.07.04(木)