その、唯一の忘れ形見が浜木綿だ。
十年ほど前、南家出身の皇后が産み落とした宗家長子の長束は、日嗣の御子の座を弟の若宮へと譲り渡している。だが南家としては、何らかの手段で、若宮が即位する前に、その座を兄宮へとお返し願おうと考えているのだ。
撫子の父達は、出家した兄宮を還俗させ、実の娘である撫子を后にする心積もりなのである。
当然、いずれ失脚する若宮の妻の候補に撫子を出すつもりなど毛頭なく、だが、誰も出さないわけにはいかないので、一時しのぎの人身御供として選ばれたのが浜木綿であった。
父母をなくしてから、彼女は南家を放逐されている。それから、身分が回復するまでの数年間を、下賤の者――山烏に混じって、暮らしていたのだ。
聞くところによると、山烏というものは、平気で鳥形に転身するのだという。
生まれてこの方、撫子が目にしたことのある鳥形の八咫烏など、飛車を牽く大烏だけだ。馬にさせられるなんて、よほどの重罪人か、八咫烏としての尊厳を自ら放棄した者であると決まっている。それなのに、人前でも平然と転身して見せる山烏の神経は、高貴な中央貴族である宮烏からすれば、厚顔無恥もいいところであった。
もし自分が浜木綿であったら到底耐えられないだろうと思ったが、彼女は耐えがたきを耐え、身分が回復される時まで生き抜いたのだ。
とてもすごいことだと思うし、撫子はある意味で、彼女のことを尊敬している。
だからこそ、いつも所在なげで、父や女房に言われるがまま、唯々諾々と従っているその姿には、どうにも哀れを催すものがあった。
今も、渡り廊下を行く立ち姿はすらりとしてまるで撓んだところがないのに、面はしっかりと伏せられている。
彼女は愚鈍ではなかったから、親の仕出かしたことを恥ずかしく思っているのだろうし、もう二度と、山烏に戻るまいと必死なのだ。だというのに、これから切り捨てられるばかりの若宮のもとへ送られる心中は、察するに余りあるものがあった。
2024.07.04(木)