南家の当主は、立派な立場だ。
融は、父のことがうらやましかったに違いない。
だから、殺してしまったのだ。自分が南家当主になるために。
「おのれ……」
そうと分かってしまえば、煮えたぎるような怒りが湧いてきた。
両親を殺した者が、今ものうのうとこの世に生きて、しかも、南家当主の座についているなんて、絶対に許されない。
――わたしが、仇をとってやる。
墨子が、叔父のいる南本家へと向かったのは、湿気に、月のにじむ夜だった。
皆が寝静まるのを待って、厨から包丁と食料を盗み出し、寺を抜け出したのだ。
飛車を使えばすぐの道行きだったが、今の墨子には望むべくもない。南家本邸まで徒歩で行くことを考えると、どれだけ時間がかかるかは分からない。だが、宮烏の誇りにかけて、鳥形に転身するなどという選択肢はなかった。
幸いにして、この寺から町までは参道が伸びている。町に出て一番大きい道を辿りさえすれば、迷うことなく南本家まで行けるはずだった。
虫除けにと教わった、香りの強い草を肌にこすりつけたが、何匹もの蚊や蚋がぷぅん、と耳障りな羽音を立てて、墨子の体にまとわりつく。
羽音だけでも心底不快だったのに、すぐにあちこちが痒くなり始めた。
空が白む頃には町へと着き、井戸を借りて手足を洗ったが、虫に食われた部分はぷつりと血が出ており、真っ赤に腫れ上がっていた。それだけでなく、こっそりくすねた草鞋がこすれて、踵や足の指の間の皮も擦り切れて血が出ていた。
水場を見つける度に休憩をとろうとしても、宿や店先などでは、みすぼらしい墨子が来るのを嫌って追い払われてしまう。少し前であれば、声をかけただけで恐縮しきっていたような連中に邪険にされたかと思えば屈辱だったが、いつ青嵐が追いかけて来るか分からない今、そんなことを気にしている余裕はない。
ちょうど同じ方向へ向かう商人の馬車の荷台に乗せてもらえ、そこでようやく少し眠ることが出来た。しかしふと目を覚ますと、「役所に届けた方がいいんじゃないか」と相談している声に気が付き、慌てて馬車から飛び出す羽目になった。
2024.07.04(木)