ビジネスか、経済格差を利用した搾取か

「一度くらい“女性として生まれてよかった”と思ってみませんか? 子どもを妊娠し、出産する。こんな軌跡は女性にしか起こせません。これはあなたにしかできない人助けなんですよ」

 これは「生殖医療専門エージェンシー・プランテ」の青沼(朴璐美)がリキを説得するシーン。女性の一生と妊娠、出産、子どもがセットになって語られる重荷や、それらにはリミットがつきまとう切実さが伝わってきます。

 同時に、「人助け」という言葉に、倫理的な観点から代理出産はあくまで人助けであり、善意の行為であるという建前が必要(裏で金銭の授受が発生しようとも)だということを感じます。代理出産は長い間、「産めない女性を助ける行為」「素晴らしい自己犠牲」といわれてきました。

 それらは代理出産を依頼する側の目線からの言葉になりますが、本作は代理母になる側の目線をメインに描かれます。リキにとってこれは、あくまでビジネス。第3話では「私は子宮を差し出す。そちらはお金を。対等ですよね」と、リキが代理出産を依頼した夫婦の妻・悠子に伝えます。代理出産の現状は、女性の生殖機能全体の商品化。でも、貧困女性が子宮を売るシステムは、資本主義ビジネスとして本当に割り切れるものでしょうか。

 本作で描いているのは、セレブ夫妻が貧困女性を代理母に仕立て上げるという典型的な構図。代理母を利用する側と利用される側には経済的な格差があり、結果的に搾取になってしまうのではないか。同様の疑問を、悠子の友人であるりりこ(中村優子)も指摘します。

 これを女性の生殖の自己決定権の行使と考えれば、代理母になるという選択は、他者に抑圧されない強い主体のあらわれであるともいえなくはない。ただ、その考えが一般まで落ちると、貧しい国、貧困層の女性たちが「お仕事」としてますます駆り出されていくことは簡単に想像できます。

 権力勾配のあるなかで裕福な国の裕福な人が、貧しい国で貧困に喘ぐ女性たちを出産アウトソーシングに利用するビジネス。その是非を問うのは難しいことですが、本作を観ていて思ったのは、日本人はこれまで代理出産を依頼する側として外国人女性を利用し子をもうけてきたけれど、もはや日本は魅力的な代理母「市場」になりつつあるのではないか、ということ(代理出産を規制する法制度は未整備)。将来的には日本がアウトソーシング先となり、多くの日本人女性が外国人依頼者の代理母になる可能性だってある。

 しかも代理母になることは、それを自ら選んだ選択であり、「自己責任」の名のもとに行われる。リキはその選択肢を選らばざるを得なかっただけなのに。結局お金がある人しか、本当の意味で選択はできないということを考えてしまいます。金持ちだけが出産をも思い通りにできるのです。依頼主と請負人需要と供給が一致しているといっても、出産は命懸け。依頼主が新生児を引き取らなかったり、障がいのある子どもが生まれた場合も含め、代理母が負うリスクは排除できないのに。

2024.05.24(金)
文=綿貫大介