そこで福田は、改めて「個人の確立」や「精神の近代化」を言うのだが、ここで言われる「近代化」の意味合いは、いかにも福田恆存的である。それは“近代化に吞まれない”ことも含めて、全ての水平的な価値(場)を相対化できる自己の強さを意味しているのだ。

 そして最後に、だからこそ、弱いはずの「個人」を強く支える日本人の「宗教」が語られなければならなかったのである。が、それは、もちろん処世から切り離された宗教ではない。処世の果てに見出されるべき宗教である。

 最後に、この処世と宗教との関係を一言で纏めた福田の言葉を引いておきたい。

 福田は言う、「人はパンのみにて生きるものではないと悟ればよいのである。さうしないと、パンさへ手に入らなくなる」と。そして、宗教を喪った戦後日本人に対して、さらに、こう警告を発するのだ、「別に脅迫する気ではないが、自由、平等、民主主義、平和といふ徳目が戦後の日本人にやうやく根づいたなどと夢を見てゐると、とんでもないことになる」(「消費ブームを論ず」、『保守とは何か』文春学藝ライブラリー所収)と。

 昨今のコロナ騒動を見れば分かる通り、すでに「とんでもないこと」は起こりはじめているかに思えるが、実際、日本人の処世下手と、宗教音痴と、軽薄な徳目好き(偽善への鈍感)は相変わらずである。福田恆存の言葉が古くならないわけである。


「はじめに 古びない警句」より

福田恆存の言葉 処世術から宗教まで (文春新書 1445)

定価 1,100円(税込)
文藝春秋
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2024.03.22(金)