津田塾時代の文芸部会誌「創造」(昭二八)に発表した小説『痣(あざ)』(「群像」平二〇・三再掲)はこの体験を下敷きに書かれ、彼女の文学活動の原点がそこにあることを物語っている。また、みな子はこの原爆の記憶から生まれた小説『浦島草』(講談社、昭五二・三)を、自身の代表作であると終生言い続けたという。彼女には「あらゆる種類のヒロシマの証人は、その記憶を語り伝えるべきだ」(「プロメテウスの犯罪」『日本人の一〇〇年15 太平洋戦争』世界文化社、昭四八・四)という信念があった。自然の摂理を曲げて押し通された人間の欲望が、いのちのつながりを一瞬にして断絶してしまう決定的な出来事を体験した彼女だからこそ、自然の摂理としてのいのちのつながりを切望し、〈共生〉を志向したのだろう。

 平成八(一九九六)年にみな子は倒れて半身不随の身となり、以後、夫の献身的な介護を受けた。この晩年を夫婦は「蜜月」と表現する。この「蜜月」の果てに、みな子は「何よりも先ず最期まで共に生きられるパートナーを探しなさい、それから世界のことを考えなさい」(「共に生きる」)という言葉を遺言とした。つながりの中で〈共生〉すること、その哀しみも喜びも余すことなく享受することで、豊かな大庭文学が形成されたのだ。

精選女性随筆集 宇野千代 大庭みな子(文春文庫 編 22-6)

定価 1,100円(税込)
文藝春秋
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2024.03.06(水)
文=遠藤 郁子(石巻専修大学教授)