みな子は昭和三〇(一九五五)年に二五歳で大庭利雄と結婚した。〈小説を書き続けること〉が結婚の条件だったという。「結婚は私にとって大変な解放でした」(「孫悟空」)と言えるほどに、彼女の結婚は自由で満たされたものだったが、そう振り返る余裕を彼女が実際に持ち得たのは、小説家デビューを果たしてからのことである。

 みな子は結婚の翌年に一子を儲け、昭和三四(一九五九)年に夫の勤務のためアラスカに移住し、小説家としてデビューするまで一〇年余りをその地で過ごした。いわゆる駐在〈妻〉として、また幼い娘の〈母〉としてあった、文学的な交流もほとんど持てずにいた当時のことを、彼女は「その頃、わたしは自分を流刑地に閉じこめられた囚人のように感じていた」(「著者から読者へ」『三匹の蟹』講談社文芸文庫、平四・五)と振り返っている。この葛藤と閉塞感の記憶が、「II 生命(いのち)を育てる」にあるように、「母性愛」に過剰な意味を付加しようとする世の傾向を牽制し、女性の多様な生き方を狭めるような風潮を批判する姿勢につながっていると考えられる。

 しかし、無意味な繰り返しのように感じられる日常生活こそが人間の営みなのであり(「草むしり」)、「一人の人間が生まれ、生きているということの中には、途方もない長い時間をかけてその祖先たちが繰り返し、反復して得た生きつづける力がある」(「甦るもの」)のだ。生活の「囚人」だったというこの時期があったからこそ、彼女の中には生活者たちの呟きが蓄積されてゆき、それにより「III 文学・芸術・創作」で主張されるような「文学は、生活の中にしか埋まっていない」(「創作」)という思想を獲得するまでに至ったのである。「思い出すままに」で、ナボコフやコジンスキィが自身の文学を確立する前にアメリカで自分を解放する機会を得た事実に自分自身を二重写しで見ているように、彼女が自身の文学を確立するためには、アラスカでの経験が必要不可欠であったと言える。

2024.03.06(水)
文=遠藤 郁子(石巻専修大学教授)