その後、日本に帰国し本格的に執筆活動を開始した彼女は、日本国内、国外を問わず、多くの知己を得ていく。彼女の交友関係は非常に広く、「IV 作家の肖像」に収録されているのは、その交友を示す一例だ。川端康成は、彼女が芥川賞を受賞したときに作品を高く評価して受賞を後押ししてくれた選考委員の一人であり、受賞後に交際を持つようになった。川端文学の魅力を「冷徹さ」に見るみな子の文学もまた、対象を静かに凝視し描写しきる同質の「冷徹さ」をもっている。こうした文学的共感が、二人の交流を可能にしたのだろう。

 円地文子は、谷崎潤一郎賞で『寂兮寥兮(かたちもなく)』(河出書房新社、昭五七・六)を推奨した選考委員の一人で、女性作家たちの交流の場であった女流文学者会などでも親交があった。日本古典文学の素養を備えた円地との付き合いは、彼女の文学活動にさらなる広がりを与えた。野間宏との付き合いは、彼女が津田塾の学生だった時代まで遡る。一六歳の頃から小説を書き始めたというみな子は、大学に入学して間もなく、友人の紹介で野間の自宅を訪問し、以後、卒業するまでに何度も自分の原稿を持って訪ねたという。津田塾時代の文学の師とも言える存在である。また、小島信夫との親交も長く、彼の死の直前に発表された「風紋」(「群像」平一八・一〇)は、〈ラブレター〉と言われるほどに、彼に対する好意をストレートに表現している。

「V 少女時代の回想」では、大庭文学のバックボーンを確認できる。彼女は、自身の子供時代や家族との関わりなどについての随筆を多く残している。それらを語ることは、彼女にとっては、受け継がれるいのちのつながりを確認する作業として、欠かせないものだった。

 さらに、大庭文学を語るうえで忘れてならないのは、彼女の原爆体験だ。昭和一九(一九四四)年、海軍軍医だった父の転勤のために広島に移住したみな子は学徒動員され、爆心地から三〇キロほどの学校工場で八月六日に広島に広がったきのこ雲を目撃した。そして、終戦後に二週間ほど、学徒救援隊として広島市内の救護所に動員され働いた。「地獄の配膳」に語られる壮絶な体験である。

2024.03.06(水)
文=遠藤 郁子(石巻専修大学教授)