そしてまた。

 この伏線の仕込み方に、ユーモアミステリという側面が生きて来る。テンポよく繰り出されるギャグ、体中の骨が軟骨になってしまうような脱力系のだじゃれ、繰り返されるお約束のシチュエーション、絶妙なツッコミを入れる地の文。よく「万人が泣く映画を作るのは容易いが、万人が笑う映画は難しい。笑いのツボは人によって違うから」と言われるが、本書の笑いは多岐にわたっており、あらゆる人のツボにヒットするのではあるまいか。ちなみに私が一番好きなのは(かなり地味な箇所なのだが)、彦島と門司港を結ぶ橋が出来たらなんという名前になるのかという絵里香の問いにツッコむ地の文です。いやもう、ツボにハマってしまって、ひとしきり笑ったね。しかも混み合った喫茶店で。ひとりで。端から見たら完全にヘンなおばさんだ。恥ずかしいったらない。

 ところが笑った時点で、著者の術中なのだ。軽妙な面白文体は著者の持ち味であると同時に、伏線を巧妙に隠す技でもあるのだから。著者は以前、インタビューに答えてこんなことを話している。

「本格ミステリーとユーモアは自分の中では一つです。好きな笑いのタイプは前振りがあって落ちがあるものだし、本格ミステリーも伏線があって、それを回収していきます」

(朝日新聞 二〇〇八年二月十七日)

 つまり著者にとって、ユーモアミステリを書く作業と本格ミステリを書く作業は、その手法としてほぼイコールなのだ。だから「ユーモアミステリっていうとお笑い優先で、謎解きやトリックはぬるいんだろうな」という予断はこの著者には当てはまらない。その技巧は、じっくり本編で堪能されたい。旅情ミステリ・本格ミステリ・ユーモアミステリという三つの要素が分ちがたく結びついているということを、ご理解戴けることと思う。

 そして残るひとつの要素──青春ミステリは、これはもうキュートな絵里香ちゃんと、懲りない翔太郎の関係に尽きる。翔太郎は脅されたり殴られたり海に落とされたり(いや、自分で落ちたり)しながらも、なんだかんだ言って絵里香へのあくなきアプローチを続けているではないか。ヒロインがヤクザの組長の娘で高校生というのは、前述のインタビューによれば、赤川次郎『セーラー服と機関銃』からの連想なのだそうだが、赤川作品では女子高生自身が組長になったのに対し、本作では絵里香のバックには現役組長をはじめ、その組長より権力と実力を持つ絵里香の姉の皐月、忠実かつ個性的かつトボけた組員たちが控えている。翔太郎が果たして思いを遂げることができるか、ぜひ続きを書いていただきたい。これほどまでの環境を打破するには、今度は狂言ではなく本当に誘拐するしかないのではなかろうか。懲りない上にチト考えの足りない翔太郎のことだ、「もう誘拐なんてしない」なんて言わないよ絶対。

もう誘拐なんてしない(文春文庫 ひ 23-6)

定価 946円(税込)
文藝春秋
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2024.01.25(木)
文=大矢博子(書評家)