パパにとってママは一番の相談相手

――家庭でのおふたりはどんな関係でしたか?

 パパにとってママは一番の相談相手でした。

 パパって、日本でいう“お年寄り”じゃないですか。昔の世代の男の人の考え方として、女の人を下に見る人が多かったりしますよね。でもパパはそういうことはなくてママの意見をきちんと聞く人でした。女の人を馬鹿にするようなことはしませんでした。パパとママが喧嘩している場面を見たことがないんです。ママを尊敬しているというか、頼もしく感じているというか。

 代官山に住んでいたころはいろんな選手が出入りしていました。当時、タイガーマスクの正体が誰かわからない時代に、よく佐山聡さんも来ていてパパの背中の上に乗ってマッサージしたりしていて。

 ママはうちに来た人、みんなのご飯を作るんです。来る人、来る人みんなの分を。ママも俳優をしていて忙しくしていたんですけど、仕事から帰ってきて台所に立ったら「ハイ、みんなできたわよ!」って感じで。もう女将さんですよね(笑)。

――離婚して10年後の1997年、倍賞美津子さんは体調を崩されていますね。猪木さんはどんなご様子でしたか?

 私がボストンの大学を卒業する前でした。ママが直腸がんであることがわかったんです。状態が進んでいて、日本の病院に入院することになって、私は病院に泊まり込みで看病をしていました。

 パパに病気のことを電話で伝えたら、その日の面会時間を過ぎた夜遅くに病院に突然パパが来たんです。竹筒に入った水羊羹を持ってお見舞いに。その羊羹は京都に売っているもので、ママが好きなことを憶えていたんですね。何かしてあげたいと思ったパパは、(病気のことを)聞いたその日に京都の羊羹を買って駆けつけてくれたんです。

――そのとき病室でどんな会話があったか憶えていますか? 勇気づけるような言葉をかけていましたか?

 パパはそういうの下手でできないんです。人前では偉いこと言えるかもしれないけど(笑)、そういう場面では無理。

2024.01.07(日)
文=児玉也一
写真=末永裕樹(寛子さんポートレート)