「蔦重には風流も文才もないけれど世渡りの知恵は…」という不思議な評価
狂歌にわき、黄表紙の開板が相次ぐ天明3年(1783)、33歳の蔦重は吉原から日本橋通油町へと進出している。日本橋はお江戸の中心街、名だたる有名本屋が集まっていた。間借り店舗でのスタートから10年あまり、とうとう耕書堂は一流版元の仲間入りを果たした。
蔦重はまことに如才がない。
彼の姿は何冊かの黄表紙に描かれていて、どれも豊頬に穏やかそうな笑みを浮かべている。しかし、どのシーンでもしっかり原稿を催促しているのだから油断がならない。
曲亭馬琴は若き日に蔦重の店で働いていた。その彼が主人をこう評している。
「蔦重には風流も文才もないけれど、世渡りの知恵はすぐれていて時代を代表する才子に愛されていた」
蔦重の行動を追うと気前ばかりか気風(きっぷ)もいいことがわかる。才能、将来性を見極める眼力もたいしたもの。見込んだ人物には躊躇なく力を注ぐ。開板に際しては一気呵成に攻勢をかけた。
何より蔦屋は飛ぶ鳥を落とす勢いの出版社、ここから出せば一流の証のうえヒットした。
蔦重のしたたかさは、狂歌を新人育成と発掘の場として活用したことにもあらわれている。
まだ名声を博す前の喜多川歌麿に、デッサン力強化のために虫や貝、鳥などを描かせ、それを狂歌絵本として開板した。蔦重は歌麿を自宅に居候させるほど腕を買っていた。その歌麿にステージを与え、世に出す。狂歌絵本のメインは歌麿の画、狂歌は付け足しでしかない。
ほどなく、歌麿は上半身をクローズアップした美人大首絵で浮世絵界の風雲児となる。
北尾政寅という若手絵師が、山東京伝として文才を発揮できたのも狂歌サークルがあったからこそ。蔦重は京伝に黄表紙『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の文章と絵を描かせる。勘違いセレブ野郎の主人公、艶二郎がモテ男になろうと繰り広げるドタバタ劇は黄表紙の白眉と高く評価され、艶二郎のブタ鼻は子どもたちが落書きするほどの人気を博した。
2024.01.07(日)
文=増田晶文