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他方、父に対しては強い調子で…

 この話をどう思うかは、人それぞれだろうが、その母親が亡くなった年齢を超えてなお、息子がこのように話す母親とは、いったいどんな人物だったのだろうかと、私は興味をもった。

 他方、2005年の取材時、父親は91歳でまだ健在だったが、小田は父に対しては強い調子で、「嫌悪」の言葉しか発しなかった。たとえば、音楽か建築かという選択のなかで、小田は大学院に進み、五年かけて修士論文を書くのだが、大学院をやめなかった理由の一つとして父親の縛りをあげ、「オヤジは学歴がないから、学歴にうるさかった」と冷たく言い放ったものだった。

 この時の原稿に、私は、小田にとって「父は通俗の象徴、母は聖なる象徴」とし、「『俗』への嫌悪、『聖』への憧憬、これが小田をずっと縛ってきたように思われる」と書いた。そしてそのあまりに対照的な思いに対して、当時、いったい何があるのだろうかと、戸惑いと興味をもったものだった。その取材時から3年後の2008年、父は93歳で亡くなるが、そのしばらく後、兄兵馬は父の引き出しを初めて開け、父の姿をようやく少し知ることになる。

 母・奥本きのえは、大正9(1920)年11月5日に和歌山県東牟婁郡北山村で生まれた。北山村は、奈良県と三重県に接し、和歌山県のどの市町村とも接していないという珍しい飛び地で、昔は本当に山深い土地だった。木の伐採や輸送、畑仕事が村の主な生業だった。兵馬は「おふくろにいわせると、平家の落人の集落で、血がどんどん濃くなっているんだと。血が濃いというと、僕らは、いろいろなことが腑に落ちるようでした」と話す。小田兄弟がまだ幼いころ、母のふるさとに遊びにいったことがある。

「昭和29年ごろです。その時、父が8ミリの映写機を持参して撮影し、その3、4年後にふたたび訪ねた時、前に撮った8ミリの映像を見せると事前に伝えると、村の人たちが、電気を使うからとわざわざ発電所に許可を求めに行ったらしいです。そのくらいの田舎でした」(兵馬)

 きのえは9人兄弟姉妹で五番目の長女、上4人が男(四男はすぐ養子に)で、妹が2人、弟が2人いた。ちなみに、上4人の兄のうち、三男・龍三は絵も歌も上手く頭も良かったが25歳で夭折、それはいまなお小田家で伝説的に語られている。一番末っ子の弟、昭和5(1930)年生まれの奥本康は90歳を超えて健在、千葉市で薬局を営んでいる。2021年2月に私が訪ねた時、康はジーンズを穿き、Gジャンを着て、白髪を後ろで一つに結ぶという若々しいスタイルで店先にいた。

 康は、「姉は末っ子の私を本当に大事にしてくれました」と何度も繰り返し、こう続けた。

「和正君は、私に輪をかけて愛情を受けたんじゃないですか」

 きのえは小学校を出たあと、看護婦になりたくて、和歌山県・新宮の寺本医院、さらに松橋病院に勤め、その後、長兄を頼って上京した。この長兄・実雄が奥本家のキーパーソンだったようである。康が語る。

2023.12.01(金)
著者=追分日出子