ずっと以前からこんなことを考えていたわけではない。五十の声を聞いてからのことである。平均寿命がずいぶん延びたとは言え、そろそろ先行きの残り時間を勘定しはじめる頃合なのだろう。自分が死ぬときの光景なんか、若いときは想像する趣味がなかった。しかし、このごろは考えるのである。いったい、どの程度思い通りに生きて来られたのか、それさえよく判らないくせに、あるいはこれから先だって、みっともなくジタバタするに違いないくせに、何とか最後のときぐらいは絵になって死にたいと思うのは、あながち私が生まれついてのロマンチストというだけではあるまい。

 たとえば季節、西行さんは花の下の春がいいと言っているが、ガラス障子の向うに小雪が降るのを眺めながらというのも悪くない。秋、時雨の音を聴きながらというのだって、いかにも人生っぽくていいかもしれない。あるいは私の枕頭に駆けつける顔触れ、あいつの顔だけは見たくない、あの女にはもう一度会いたいけれど、こんな際にはちょっと具合が悪い。という風に、馬鹿なことでもいろいろ考えていると際限がないので呆れる。まあそんな呑気なことを言っていられるのも、いまのところ体に取り立てて不自由なところがないお蔭だから有難いとは思うのだが、それならそれで、何をあくせくの日々の中、ほんの束の間の暇つぶしに、〈マイ・ラスト・ソング〉でも考えて、いざというときに備えようかと思うのである。

 と言うのは、〈最後の食卓〉と違って、五十年かけて聴いたり歌ったりした歌というものは、あまりに数が多すぎて、一つはおろかベスト・テンを選ぶのだって迷いに迷いそうである。歌と言ったって、歌謡曲もあれば童謡もある。讃美歌だって歌である。パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」を聴けばいまでも涙が出るし、杉並第一国民学校という私の小学校の校歌を兄と二人で口ずさめば、あの顔この顔、次々と浮かんでくる。もう死んでしまった奴、行方の知れない奴――時代が変わればその都度の人の数だけ歌があり、ところ変わればまた一つずつ歌がある。まして、死ぬときに耳元で聞こえる歌ということになれば、それは私の人生そのものということになるかもしれない。無人島へ持っていく一冊の本とは訳が違う。〈あなたは最後に何を聴きたいか?〉自分で言い出しておきながら、これはとても厄介な質問である。

2023.05.12(金)