この「解説」という、本の後ろのほうに設置された奇妙な場所に、この特別な作品の著者ではない人間が作者の物語の概要を書き記すことは無粋なことだと感じる。もしうっかりこのページを先に開いてしまった方がいたら、どうか一旦本を閉じ、深呼吸をして、最初のページを開き、この本に収録されている作品たちを全身で存分に味わってほしいと思う。ある種の素晴らしい作品は、読者にとって「自分の物語」となる力を持っている。著者の作品は、特にそういう魔力があると感じる。作品たちを読み終えたとき、もしかしたら読み手は他者の言葉など欲していないかもしれない。そのときは、ここに書いてある言葉を読む必要はない。ゆっくりと本を閉じて、著者の紡いだ言葉だけを噛み締めてほしい。読書が自由であることは当たり前のことなのに、わざわざここにこんな文章を書くのは、私自身にとって、著者の作品はいつも自分だけのひっそりとした奇跡だからだ。だから、他の読み手の奇跡の邪魔をしたくはない。そう願わずにはいられない力が、この本には宿っているのだ。

 この本の最初に収録されている「木になった亜沙」は、自分の手から食べ物を食べてもらえない人生を送っていた亜沙の物語だ。やがて亜沙は本当に木になり、割り箸になる。割り箸の亜沙はある若者と出会い、ついに彼女が差し出した食べ物を食べてもらう。

 雑誌に掲載されたこの作品を読んだとき、私は割り箸になった亜沙の感動を、ずっと探していた言葉のように感じた。いつでもページを開いて物語と再会できるように、本棚の一番自分と目があう場所に雑誌を並べた。ずっとこの物語と繋がっていたかったし、背表紙が見えないと不安になった。この物語が存在する世界に生きていたいという気持ちにさせられた。そう感じるということは、この作品を読む前は、この物語が存在しない世界を生きていたということだった。どちらも孤独な世界だった。けれど、この物語がない孤独と、ある孤独は、私にとってまったく違う世界に感じられた。

2023.04.28(金)
文=村田 沙耶香(作家)