青島では、本土からやや遅れること1878年に、島の古刹であった潮音寺(ちょうおんじ)に「潮音小学校」が開かれた。同校は学校制度の度重なる変更に伴い青島尋常小学校、青島国民学校を経て、最終的には1947年、青島小学校に青島中学校が併置される形となった。

 なお、最初に小学校の校舎として利用された潮音寺は、1886年に廃寺となったものの、小学校校舎から向かって左の傍らに、今もその姿が見える。

 そして1957年に青島が離島振興法の指定を受けると、振興計画の一環として、翌1958年に青島中学校が現存する校舎に新築された。また1964年には、同じく青島小学校も改築されている。

 だが、いずれも現役の校舎として使われた期間は短い。両校が改築された時期を境に、青島は急速に衰退していくのである。

青島の衰退

 青島は人口こそ戦前の1942年に889人のピークを記録した一方で、産業面での衰退は同時期には既に始まっていた。青島の主要な産物であったイワシは資源量の変動が大きく、特に1940年代は伊予灘海域も含めて全国的にイワシの不漁に見舞われた時期であった。その頃から、青島の業者も経営が不振となる。

 また、戦後の産業構造の変化も大いに影響した。第一次産業から他産業への労働力移行は時代の趨勢であり、戦前から島外への出稼ぎ者が多かった青島の人口流出は、戦後にいっそう進んだ。高度経済成長期、都市部がその恩恵に浴する一方で、全国の農山漁村地域では過疎化が急速に進んだという繁栄の裏表である。

 1955年時点までは、青島の総人口は798人(うち小学校児童129人)を保っていたものの、1965年には471人(同92人)と、あろうことか10年で6割にまで急減した。当時の長浜町議会では、「青島にあっては、中学を卒業する者は、ひとりとして、青島には帰ってこない」「将来は、老人のみが残るのではないかともいわれる」と、島の人口流出に対する危機感が述べられている。しかしその一方で、「青島は人口が多すぎる」「人口が若干、減るということは長い目で見ると悪いことではない」という楽観的な見方もあったようだ。

2023.03.03(金)
文=Drone Japan