ひとしきり猫の餌やりタイムが落ち着くと、筆者は島内の散策へと向かった。ところが、そこで目にした景色からは、「楽園」と一言には括れない青島の別の表情も見えてきたのである。

 

ひときわ目を引く印象的な廃墟が……

 青島の大半は樹木に覆われた小高い丘になっており、人の住む区画は東南部の僅かな平地に限られている。港の周囲約200mに広がる居住区には、現役で島民が住む家屋がある一方、大半は無人化して久しい廃墟であり、中には外壁に植物を纏っていたり、相当に崩壊が進んだ建物も散見される。

 そして、海沿いの居住区から少し奥まったところ、観光客も滅多に来ないであろう小高い丘の斜面に、ひときわ目を引く印象的な廃墟があった。かつて島の小中学校だった「長浜町立長浜小学校青島分校」と「長浜町立青島中学校」の校舎である。

 斜面の下側に建っているのは小学校校舎で、こちらは最近まで公民館や宿泊施設として使われていたらしく、古くはあるものの荒廃は少ない。一方で、斜面の上側に位置する中学校校舎は、外壁は全体が蔦に覆われ、入口と思しき箇所も分厚い藪に封印されている。内部への侵入はおろか、接近すら困難である。このような物件こそ、ドローンが威力を発揮する被写体だ。

 ドローンを操り、小中学校の校舎をカメラで捉える。

 南向きに建てられた中学校校舎の1階部分は、ほぼ完全に生い茂る草木に沈み、植物の侵食は屋根の上にまで及んでいる。

 半面、破れた窓から観察できる教室の内部は、窓ガラスや内壁の一部こそ剥落しているものの、外観の荒れ方と比較すれば、いくらか綺麗に保たれている。その理由は、離島にあること、そして侵入が困難であることから、人為的な破壊を受けていないためであろう。

 いったい、これらの校舎にはどんな歴史が秘められているのか。

 両校の沿革は、明治期に遡る。

 

 日本の近代化を推し進める時の新政府は、国民一般に対する教育の普及を急務と考え、1871年に旧文部省を創立。その1年後となる1872年に日本最初の近代的学校制度である「学制」を公布した。これを受けて、大洲市内にも民家や寺院の建物を利用した学校が次々に開かれ、1875年頃には現存する殆どの小学校の前身が揃った。

2023.03.03(金)
文=Drone Japan