娘の紀子さまの結婚のときも、そうだった。
初めて川嶋さんに会ったのは1987年、川嶋さんが学習院大学経済学部教授のころだった。宮内庁担当だった先輩の内藤修平記者に連れられて、東京・目白にある大学の研究室を訪ねた。
宮さまの結婚相手・紀子さま
娘の紀子さまが、同じ学習院大学で1年先輩の「礼宮さま」(現・秋篠宮文仁皇嗣殿下)と親しく交際している。そんな情報を内藤記者はいち早くキャッチしていた。
皇室ではこの時期、礼宮さまと兄の浩宮さま(現・徳仁天皇陛下)が、そろって結婚適齢期を迎えていた。誰と結婚されるのか、については、今以上に世間の関心が大きかった。新聞社としては、「宮さまの結婚相手」はなんとしても「トクダネ」で報じたいと思っていた。
当時、私は30代前半。支局勤務を経て東京社会部記者となり、事件はもちろん、上野動物園のパンダの妊娠や中国残留孤児の親探し、大学の教育改革など、実にさまざまなテーマの取材に関わっていた。
先行していた内藤記者の取材に若い私が加えられたのは、「女性の視点」から、お相手の女性をみてほしいという会社の考えがあったように思う。今思うと、なんとも時代遅れで取材相手にも失礼な話だが、当時は大真面目だった。
そもそも新聞社は、長らく典型的な「男の職場」だ。ニュース記事は男性が書くもので、女性はニュースの「ネタ」になる側だった。「結婚までの腰掛けではないか」「夜勤や宿直ができるのか」等々の理由で、女性記者の採用には社内の反対も根強かった時代だ。
私にも入社以来、「初の県庁クラブ女性記者」など「初モノ」の肩書きがついて回っていた。100人を超す大所帯の東京社会部に女性記者はほんの4、5人。最も若い私はパンダ並みの注目度で、女性のからむ取材はなんでも降ってきた。
「紀子のことはよくわからない」
初めて訪れた川嶋さんの研究室は本や書類が積み上げられ、いかにも教授の仕事場然としていた。机の上に、幼い紀子さまの小さな写真が飾ってあった。黒っぽい乗馬帽をかぶり、白いポニーにまたがってまっすぐに前を向いた愛らしい姿。一家がウィーンにいた頃の撮影と聞いた。
2022.01.03(月)
文=斎藤 智子