実はサザンのデビュー以前からのサザンファンで、ちゃんとファンクラブにお金を払い続けていれば、ほぼ最古参だったというのが私で、これは自慢でなく書評を書かせていただく上での説得力の喚起である。
さて日本ロック界、もしくはポップス界の帝王ともいえる桑田佳祐が、鬼神の舞台、週刊文春で連載を持ったということ自体がまことにスリリングな奇跡だ。
炎上か、逆に文春の力で消火なのか、桑田さんは危険な山の稜線をある時は軽く踏み外しかけ、またある時は予防線を何重にも張りながら移動していく。その言動の振り子は左右に揺れながら、いかにも桑田節としてこちらの魂に響く。
令和の時代にアップデートすべきものは多いと評者は思うが、うっかりすると繊細に残し損ねる社会の余裕というものもある。ことにそれが表現の幅に関係する場合、桑田佳祐はそれを執拗に擁護する。それも例の「振り子」を多用して“古い”自分に常にツッコミを入れながら。
時代のトップにいる表現者が、ただ漫然と流行の波に乗ろうとはせず、肯定と否定とをひらりひらりと入れ替えながら、時の流れに逆らって今いる場所にとどまり続ける姿は、その意見が正しいか否かに関わらず、自分が納得するまで留保する姿として正しい。
そうやって流れの中に身を置いて絶えず考え続けることこそが、「大衆」のあり得べき倫理なのかもしれず、それこそがポップスの核心とも言えそうだ。
また揺れる倫理のあらわれの形として、著者はさかんに自分の文章にカッコを入れ、そこに(汗)とか(土下座)とか(泣)と入れる。それは例の「肯定と否定とをひらりひらりと入れ替え」る術でもあるのだけれど、読んでいるとそれがカウベルとかギターカッティングとか一発のシャウトに聴こえてくる。
そう、桑田佳祐はもう一人の桑田佳祐と、もっと言えばバンドのような人数の桑田佳祐と共にこのエッセイを書いたようなもので、それぞれが濃度の違う意見と感覚を持ちながら、しかしひとつの曲の中で各々の思いを演奏したのだ。
2021.12.15(水)
文=いとうせいこう