「黒野田さんのお通夜な、自分、行くか?」
最後の、ありがとうという感謝の心、のすぐあとに続けて、「ええ」と社長が声を張りあげる。うっかり音量が大きくなりすぎたらしい。咳払いをして、渋い声で続ける。
「本日は、みなさんに、大変、大変残念なお知らせがあります。当社の元社員で、現役の頃には大変な貢献をしてくださいました黒野田さん、黒野田郁夫さんが、一昨日夜、突然の火災で、他界されました」少し訛って、くろんださん、と聞こえる。その響きもなつかしい。「ついこの前まで一緒に仕事をしていたのに、あまりに突然で、あまりに早く、残念でなりません。ご連絡をいただきましたご遺族の方からおうかがいしたところでは、火元は、着衣着火といわれる、ええ、ガスコンロの火など、といいますか、消防の検証の結果、今回の場合はまさにガスコンロだったそうですが、その火がお召し物に引火して、あっという間に燃え広がるという現象だそうで、ええ、みなさんにおかれましても、ご家庭等で、今後十分に注意していただきたいと思います。先ほどちょっとAIに質問してみましたところ、日本で年間百名ほどの方がこの事故で亡くなられているそうで、ご家族の方にも、しっかり注意していただいてほしいと」
話が迷子になりかけている。数人がささやき声で「うん」とか「なあ」とか言い交わす。低いざわめきに、はなをすすって嗚咽する声がひっそり混じる。ゆーこんさん。それを残して、みな静まる。
「ええと、それで、お通夜が」ごつい社長は、おつうや、と発音する。おつや、おつうや。まあ、ええけど。「お通夜が、今晩行われるそうです。ご葬儀は明日ですが、そちらはなるべくお身内でというご遺族のご意向もありますから、少しご無理を申しあげて、社を代表してわたし三山と平見部長の二名のみ参列させていただきます。お通夜も、みなさんお気持ちはそれぞれおありでしょうが、大勢で押しかけてご迷惑になってもいけませんので、それでも、ぜひともという方だけ、わたしか平見部長にお声がけいただければ、斎場の名前と住所をお伝えします。以上です」
平見部長にうながされて、諏訪さんが朝礼の終わりを告げる。すぐに首を伸ばして右奥の事務島を見る。菅野課長が正面から結子さんの両肩に手を置く。何か声をかける。しっかりしなあかんで、だけ聞こえる。ほかは聞こえない。
背後の扉からひとりでするりと事務所を出て、階段を降りる。高校時代のことを少し思い出す。お父さんを亡くした友達がいて、忌引きのあと学校で休憩時間のたびに泣いていた。そんなことがあったから、だれも亡くなってほしくなかった。
坪庭のように狭い中庭に出る。晴れているけど、かえって空気が冷たい。地面も冷たい。冷蔵庫か。ニットのカーディガンにエプロンでは、ちょっと涼しい。きょうの予報を思い出す。気温はあまり上がらないとあった。ていうか朝一より寒ない? 白い不織布のマスクをつけて鼻と口を覆い、さむ、さむ、さむ、と小走りで、直営店の裏の勝手口へ急ぐ。煤黒い戸板に緑の塗料のはげた金具がついていて、そこに南京錠がかかっている。ピッキングどころかドライバー一本で外せそうで、だいぶ心もとない。まあ勝手口自体が会社の塀に囲われた敷地のまん中だし、泥棒さんに入られたことはないけど。速い風が吹いて背中が勝手に震える。足踏みしながら震える手をエプロンのポケットにつっこんで、鍵、鍵、鍵を出す。焦りながら氷みたいな南京錠を外し、引き戸を開く。
お店の中もやっぱり寒い。外と変わらんやんけ。むしろ外より寒いし。暗いせいで余計にそう感じるのか。夜の冷気がシャーベットになって残っているようだ。町家風、というか、会社のとなりの古い町家造りの本物を先代の社長の時代に買い取ったそうで、それで店舗の部分を広く取るために柱だけ残してずぼっと広い空間にしてしまったから、なおのこと寒い。勝手から入ってすぐの照明のスイッチではなく、その横の操作パネルに手を伸ばす。頭上のエアコンに小さな緑のランプが光る。うんともすんともいわない。エプロンの中に両手を隠して、その場で小刻みに跳ねる。足踏みをする。マスクの中でくしゃみする。くそう。やがてエアコンがワープしそうな大仰な音を立てて、ようやく暖かい空気を吹き出してくれる。もう少し温度が上がるまで何もできない。
足踏みしながら、なんやろ、と思う。ちょっと疲れてきたので足を止める。なんなんやろ。服に火が着いて火事になって、って、そんなことある? それがあったて話で、もちろんかわいそうやし、つらいし、頭ではわかるけど、ひとりになってみると、もうひとつ現実感がない。というか、そもそも亡くならはるのに、かわいそうな方法とか、かわいそくない方法とか、あんねやろか。事故と病気で心構えとか準備とか違っても、けっきょくあんま変わらんというか、それ以外の要素があるというか、そのひと次第というか、うーん、わからん。病気と事故でもようわからんのに、なあ。ただの火事と、着衣着火やっけ? の違いって、けっきょく、周りがどんだけショックを受けたかの違いでしかないような、いやー、想像力が死んでるだけかもわからん。わからへん。わかりません。ひょっとすると、みんなのリアクションで逆に冷めただけかも。実際、つきあいも短いし。そやね。考えてもしゃあない。お店のあいだは切り替えていこ。
いくらかエアコンが効いて温まってきた。開店準備、はよせな。両頬を自分で叩いて、よし、と気合いを入れる。壁のスイッチに手を伸ばして明かりをつける。天井の蛍光灯がしぱしぱまたたきながら白く灯る。おはよう、ガラスのショーケース。おはよう、昔からあるレジ。POSシステムにしてほしい。おはよう、古い味噌樽を二つ並べた陳列棚と、商品の山を覆う白い布。おはよう、去年の秋に書いたささやかなPOP。ほうきとちりとりを左右の手に持って売り場を抜ける。おはよう、ここが職場。外の光はなく、真夜中みたいに蛍光灯だけがあたりを照らす。表の戸の手前でほうきとちりとりを足元に置いて、シャッターの内側の鍵を開ける。片膝をついて、下から、おらー、とシャッターを開ける。ばりばり割れそうな音がして、表の通りの光と冷えた空気がすばやく流れてくる。
外は明るい。ほうきを拾って表に出る。外から戸を閉め、その辺を軽く掃く。ごみは全然落ちていない。ちりとりを持ってきて、ちょっと集まった砂埃を掃き入れる。掃除を終える前に、もう一度確認。ごみ、なし。通りにはだれも出歩いていない。向かいの眼鏡屋さんはまだ開いていない。大ベテランのご夫婦がやっていて、地図アプリのレビューの平均点がめちゃめちゃ高い。その二軒となりの洋食屋さんも好評だ。
土日はちょっと行列ができるらしい。扉が開け放ってある。あっちも掃除かな。
さて、とお店に戻って白い覆いを外す。おはよう、パック入りの味噌。布を小脇に狭いバックヤードに引き返して、ごみ箱にちりとりのちりを捨てていると、急に勝手口が開く。びっくりして息が止まる。油断していた。
「ちょっとええか、古井瀬」と、珍しく小さな平見部長の声。重低音はいつもどおりだけど。儀式めいた折り目正しさで勝手の戸を閉め、またこちらへ向き直る。体格がいいから、お店が狭く感じる。少し身をかがめて、密談のように薄くささやく。
「きょうの、黒野田さんのお通夜な、自分、行くか?」
え、いえ、わたしは、大勢押しかけるなって言ったはったんで、遠慮しよかと。
「そか。ええよ」
用はそれだけかと思ったが、すぐには出ていかない。なんやろ、と思う。
「川上くんは、どうやろか」
海史? と思いながら答えを探す。え、いや、どうでしょ?
「すまんけどな、スマホ使ってええさかい、ちょっと訊いてくれへんか。言うたら、あいつ、最後の愛弟子やさかいな、黒野田さんの。ああ、お通夜は七時からや。斎場は」と、名称を教えてくれる。息継ぎをして、急にかすれていく声で「あいつ顔出したら、喜ばはるやろ、黒野田さんも」とつけ足す。
あ、はい。エプロンのポケットからスマホを取り出して、手帳型のカバーを開く。
「表から見えへんようにな」
スマホ触ってんのを見られて炎上て、ほんまかいな、と思いながら、レジの陰にしゃがむ。小心な会社やで。ちょっと暗がりに入って、気持ちもダークになる。ん、レジ袋、きょうのうちに補充しとこ。入社した頃は営業とルートセールス以外ロッカーにしまっておくことというスマホのルールだったが、地震警報や緊急連絡で必要なことがあるかもしれないというので、とりあえず携行はしてよい、となった。諏訪さんと井田さんがたまに高校野球なんかをチェックしているのは秘密だ。まっ黒な液晶に自分の顔がぼんやり映ってびっくりする。少し傾けて、指紋認証でロックを解除する。

ソリティアおじさんがいた頃
定価 1,870円(税込)
文藝春秋
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